2015/03/02 (Mon) 23:25
「ねえ、清四郎。近頃、あなたと悠理、おかしくありません?」
ある日の帰り道。野梨子は数日来、気になっていたことを思い切って幼馴染に訊ねてみることにした。
いつだってほとんどの時には沈着冷静な彼は、その言葉に少し体を強張らせた。
「別に。何もありませんよ。」
「本当ですの?」
立ち止まって咎めるように眉をひそめる野梨子に、清四郎も数歩進んで振り返った。
「何もないことにさせてください。」
その顔はまるでいつもの彼の顔だったのだけれど、目にははっきり当惑にも似た感情が浮かんでいた。
「悠理に、恋の告白でもされましたの?」
野梨子はつい口にしてしまってからしまった、と思った。軽い冗談だと清四郎が受け取ってくれるとよいのだけれど・・・。
しかし清四郎の目が愕然と見開かれる。それは彼女のセリフを肯定するものだった。
「知ってたん・・・ですか。悠理の気持ち。」
と掠れた声で訊ねられ、野梨子は嘆息した。
「気付いてなかったのはあなた一人ですわ、清四郎。もっとも、悠理自身が頑張って隠してましたもの。」
「そうですか・・・」
と、清四郎は目を伏せる。そこには隠しようもない彼の困惑が漂う。
「悠理がどういう形であなたに告白したかは知りませんけれど、きっと彼女はそれを言うつもりはなかったはずですわ。」
「悠理もそう言ってましたよ。」
二人はまた家へと向かって歩き出した。
「ちょっとそこの公園で詳しく話を聞かせてくださいな。」
と、白鹿邸近くまでやってきたところで野梨子は児童公園を指差した。
清四郎は小さく頷くとそれに従う。ベンチに並んで腰掛け、ぽつりぽつりと清四郎は話し始めた。
「悠理?何を見てるんですか?」
たまたま二人きりになった昼下がりの生徒会室。清四郎はここしばらく気になっていたことを訊ねることにした。
5限目が自習になったことでサボりモードに入った悠理。そして生徒会の仕事が立て込んで5限目に間に合わなくなった清四郎である。
悠理はその言葉にはっとすると、慌てて目をそらした。
「な、なんでもねえよ。」
「何か楽しいことでも隠してるんですか?」
清四郎はにやーっとした顔を浮かべて悠理に近づいてみる。自分に隠し事ができる悠理ではない。挙動不審なのは明らかだった。
「なにもないってば!」
悠理はなぜか怒ったような顔を真っ赤に染めて、必死に顔を背けている。
「じゃあなんでいつも僕のほうをなにか言いたそうに見てるんですか?なにか僕に相談事でも?」
ここ最近、気づいたこと。
いつの間にか、悠理が自分を見つめている。
ちょっとした拍子に彼女と目が合う回数が増えたことで、清四郎はそれに気がついた。
「違う!なんでもない!」
ぽろり、と悠理の目から透明な雫が零れる。
「悠理?」
泣き虫悠理の涙など見慣れている。感情豊かでなにかあるとすぐに大声で泣き出す悠理。
だが、こんな風に顔を赤らめて口元を手の甲で押さえて静かにはらはらと涙を流す彼女の姿などまるで見覚えがない。
思わず彼女の肩に触れようとして振り払われた手が宙を彷徨う。
「いったい何事ですか?」
悠理は清四郎が困ったように眉を寄せてるのがわかった。その声がそれを表していたから。
清四郎を困らせたいわけじゃない。何事もない振りを続けなくちゃならないのに。
「なんでもない。なんでもないんだ。」
と小さく呟きながら悠理は俯いて首を横に振る。柔らかな髪がその動きにあわせてふわふわと揺れた。
優しくしないでくれ。優しくされたら、優しくされたら・・・。
「悠理?」
もう一度呼んで、清四郎は悠理の顔を覗き込んだ。
ふわり、と髪に触れる。
瞬間、悠理が急に顔を上げ、振り向いた。
清四郎は何が起きたか解するのに数秒の時を要した。
己の唇に温かく柔らかな感触。
彼のものと比べてあまりに華奢な手が清四郎の学ランを掴んでいる。
肌から漂うほのかに甘い香が彼の鼻腔をくすぐる。
それが離れていくのが思わず名残惜しく、唇に寒さを感じた。
「・・・ゆう・・・り?」
数秒の沈黙ののちにやっと清四郎の喉から絞り出された声は、聞いたことがないほど掠れていた。
顔を真っ赤に染めてただ涙を流し続ける悠理は唇を引き結んで首を振るばかり。
やっとかすかに口が開いたと思ったら、
「ごめ・・・せ・・・しろ・・・ごめん・・・」
とほとんど声にならぬ呟きを繰り返すのみだった。
「悠理から・・・キスされましたの?」
野梨子が大きな目をますます見開いて手で口元を覆っている。まさかそこまで気持ちを押さえ込んでいたとは。
清四郎はその様子を横目でちらりと見て苦笑を洩らす。
「それから気持ちを聞かされたんです。」
と、清四郎は頭を抱え込んでしまった。
「そんな素振り、見せてませんわよね、悠理。」
野梨子は悠理の様子を思い出しながら言う。
実に彼女の様子は変わりがない。今日も大口開けて弁当を口に放り込んでいたし、倶楽部の皆にだって懐いていた。
野梨子や他のメンバーが気づくほどに明らかに態度が変わったのはむしろ清四郎のほうである。表面上はいつもと変わりないが、悠理との接触を過度に避けているのがわかる。悠理が袖を引こうとした腕をあからさまに引いたこともあった。
「いつもどおりに振舞ってやらなくてはと思うんですけど、どうにも僕は未熟で・・・」
くぐもったように聞こえるのは頭を抱えたまましゃべっているからだ。
「それで?清四郎は悠理のことをどう思っていますの?」
野梨子の直球が清四郎の胸をえぐる。まったく彼女は容赦がないのだから、と清四郎は溜息をつく。
「大事な友人、ですよ。決まってるじゃありませんか。」
それ以上でも、ましてやそれ以下でもない・・・。
「大事なペット・・・ではありませんの?」
「そんなことは・・・!」
と思わず清四郎は顔を上げて野梨子のほうを見る。
すると野梨子は、思った以上に厳しいまなざしで清四郎を見据えていた。
「ない、とおっしゃれますのね?」
ゆっくりとその形のよい唇からつむぎだされた言葉に清四郎はひるむ。
「正直、全くそういう感情がないと言ったら嘘になります。でも悠理も可憐もあなたも、僕にとっては大事な女友達であることに変わりありません。」
「友人以外のものとして見ることはない、と?」
「・・・野梨子。僕のことを情緒障害者だと言い当てたのはあなたですよ。」
人が知っていることを知らないことが許せない。
清四郎にとって女性との付き合いとはその程度のもの。
それを見抜いていたのは幼馴染の少女だった。
「そう。そうですわ、ね。」
今度は野梨子のほうが目を伏せることで清四郎から視線をそらした。
清四郎もまた正面を向く。今度は膝に肘をつき、顔の前で指を組んで。
「僕は我を忘れるほどの恋愛感情などというものは持ち合わせていないんですよ。」
沈黙が、流れる。
「わかってましたわ。私も、皆も。もちろん悠理も。」
野梨子は静かに口を開いた。
「だからこそ、あなたに悠理の気持ちを悟らせないように皆で協力したのですわ。」
清四郎を困らせるから?
違う。悠理が傷つくだけだから。
戸惑う清四郎の姿に、悠理が傷つくだけだから。
「でも、隠し切れないほどに、気持ちが膨らんでいたのですわね。」
かすかに野梨子の口の端が上がった。
「本当に、罪作りですのね、清四郎。」
さっくりと、その言葉は清四郎の心の奥底を刺し貫いた。
気づいてやれぬうちに、悠理を傷つけていた。
知ってしまったことでまた、悠理を傷つけてしまった。
「僕はどうしたらいいんでしょう?いつもどおりに戻ってやれば、それでいいんでしょうか?」
清四郎は眉根を寄せて前方を睨んでいる。
「私にはわかりませんわ。何が最善だなんて。でもあなたがさっきおっしゃった気持ちがすべてだと言うのなら、その通りにしてやってくださいな。」
彼女に変に期待を持たせるようなことをしないで。
彼女がゆっくりと恋心とお別れできるように友人としての距離を守ってやって。
「あたいなんかにこんな風に思われたって迷惑だよな?」
やっと嗚咽がやんだ彼女は申し訳なさそうに言っていた。
「迷惑なんかじゃありませんよ。その・・・とてもありがたいとは思うんですけれど・・・」
「それ以上言わなくていい。」
うっすら微笑んで俯いたまま彼女は彼の言葉を遮る。
「いいんだ。お前があたいをどう見てるか、ちゃんとわかってるから。」
清四郎は何も言うことができず、ただ彼女の柔らかな色の薄い髪を見つめる。
「あたい・・・帰るわ。明日から普通に振舞うからさ、忘れてくれ。」
「本当にそれでいいんですか?悠理。」
「あっは。あたいが単純なのは皆知ってることじゃんか。飯食って一晩眠ればもう忘れちまってるって。」
悠理は立ち上がりながら清四郎に微笑みかけた。いつもより若干弱弱しくはあったが、優しい笑みだった。
「それに・・・」
とそこで一旦彼女は言いよどむ。
「それに・・・なんですか?」
一瞬、悠理が目を伏せる。長い睫毛が濃い影を作る。
そして、ゆっくり開かれた茶色の瞳が清四郎を見据えた。
「あたいに恋なんか似合わない。」
自信満々、というこの場面にはとてもふさわしくない言葉が当てはまる笑顔。
少年のように精悍で、夏の陽光にも似たオーラが彼女を輝かせる。
「だから、忘れるんだ。」
凛々しいまでに吊り上げられた眉。
不敵なまでににやりとしたカーブを描く口。
それは雄雄しいまでの悠理のいつもの姿だった。
一歩ずつドアのほうへと遠ざかる彼女を引き止めるすべを清四郎は持たなかった。
ただ、目の前で閉ざされた扉を見守ることしかできなかった。
「・・・どうして皆、僕に猶予をくれないんですかね?」
と清四郎は呆れたように零す。
「あら、そうして彼女を待たせて、彼女のことをそのように見ることができると約束できまして?」
確かに、断言はできない。
悠理を特別な女性として見る日が来ることがあるかもしれない。
どんなに待ってもそれはありえないことなのかもしれない。悠理を女性として見たことがほとんどない今の状況ではこちらの確率がどう考えても高そうだ。
「意地悪ですね、野梨子。」
「当然でしょう?悠理は私たちにとっても大事な友人ですもの。」
少なくとも、彼女が一人で来ぬかも知れぬ日を待ち続けることは耐え難い。
清四郎はまた黙り込んだ。
野梨子は溜息をもう一つついてから、立ち上がった。
「とりあえず一人で頭を冷やしなさいな、清四郎。そして明日からまたいつもどおりに振舞ってやってくださいな。」
と、足を一歩踏み出した。
すると、清四郎が「野梨子。」と彼女を呼び止めた。
黒髪の少女は数歩離れたところで振り返った。
「一つだけ、聞いてください。皆には内緒に、ということで。もちろん悠理にも。」
「なんですの?」
少し彼女の声が先ほどまでよりも和らいでいた。そうせずにいられぬほど、清四郎の姿が弱々しげだったのだ。
「僕はね、悠理を女性としてはともかく、一人の人間としてかけがえのない人だと思っているのですよ。」
女性としてではない。
彼女にキスをしたいという衝動にかられることはない。
彼女に劣情を抱くことなど想像もつかない。
だが、あの彼女が放つ光にどうしようもなく惹かれている自分には気づいている。
あの去り際に見せた彼女の光を、清四郎はどうしようもなく愛しく思った。
野梨子はその清四郎の告白に軽く瞼を持ち上げたが、またすっと目を細めた。
「それで?それは恋ではないのでしょう?」
「やっぱり、恋じゃないんでしょうね。」
叱られた子供のように眉尻を下げる清四郎。
「ゆっくり考えればよろしいのよ。考えて答が出るものなら、ね。」
と、野梨子は踵を返した。
「ごきげんよう。」
とだけ言い捨てて、今度は振り返らずに公園を出て行ったのだった。
あの光を、いつまでも見ていたい。
あの光を、いつまでも曇らせたくない。
けれど、決して独占しようなどとも、独占できるなどとも思ったことはなかった。
「恋に・・・似ているんですか?これは・・・?」
考えても答えは出ない。野梨子が言ったことは正しい。
いつかあの光を独占したいと思ったら、それが恋なのだろうか?
清四郎はただ、日が暮れていく様をぼんやりと見つめていた。
あの光を、時折閉じた瞼の裏に思い浮かべながら。
(2004.12.5)
(2004.12.10公開)
(2004.12.10公開)
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