2015/03/23 (Mon) 01:19
空はどんよりと曇っている。天気予報では明日から久しぶりに雨が降るようだ。
清四郎と野梨子が暮らすマンションは、魅録と悠理が暮らしているようなタワーマンションではなく、小規模な邸宅型マンションである。
24時間常駐の管理人がいるメインエントランスでインターホンを押すと野梨子が開錠してくれて、厚みのあるウォールナット色の木目調の自動ドアが音もなく横に滑った。
「いらっしゃい、悠理。まだ雨は降りだしてませんのね、よかった」
と、悠理を玄関先まで出迎えた野梨子は、特に変わった様子はない。白い小花柄のワンピースで血色もよく見えて、体調も悪くなさそうだ。
「ありがと・・・あ、ごめん、お土産ないや」
慌てたように言う悠理に、野梨子は苦笑してみせた。
「なに言ってますの。昨日会ったばかりですのに」
「だって急に来たし」
可憐も交えて3人で可憐の新ビジネスについて話をしたのは昨日のこと。
そして悠理が「今日行ってもいい?」とメールしたのが午前9時。
今は10時。
平日なのでもちろんそれぞれの夫たちはとうに出勤していて留守である。たまたま今日も仕事の予定がなかった二人が話をするには絶好のタイミングだった。
とても手土産なんかに気を回す時間の余裕も、なにより気持ちの余裕もなかった。
服なんかそこらにあったものを適当に着てきたので、トップスこそ昨日と違う赤いリンゴ柄だが、ボトムスは昨日と同じ白いデニムだ。
悠理の余裕のなさなんか、野梨子にもお見通しなんだろう。
悠理は促されるままリビングのソファに腰かけると、ほうじ茶を淹れてきた野梨子に単刀直入に切り出すことにした。
「ね、あたい、昨日から変なんだよね」
純粋な日本人にしては色素の薄い瞳で、じいっと野梨子の黒い瞳を見つめる。
「変、とは?」
自分はオットマンに腰かけた野梨子が首をかしげる。
北欧製なのかイタリア製なのか、現代ヨーロッパ調のデザインのソファは、小柄な野梨子には大きすぎて落っこちそうだ、と悠理は思う。
そして落ち着いた色調のリビングテーブルの上を指さして、言った。
「ここにね、赤い一輪ざしがあったはずなんだ」
「赤い一輪ざし?」
白い壁に、現代デザインだが黒と茶を基調とした配色の家具。
確かにトラッドなものを好む清四郎の好みだ。
部屋の片隅に置かれた和紙を使ったライトが和のテイストを加えていて、それは清四郎と野梨子それぞれの好みを取り入れた予定調和なものに見えた。
だが、寂しい。
悠理にとってはこのリビングテーブルにあの赤い一輪ざしがあってこそ、この部屋なのだと思う。
「積み木を重ねたみたいな、面白い形なんだよ。ニューヨークで買ったんだ」
それをここに置いた時、清四郎は言ったのだ。
「ふむ。まるで最初からここに置くために買ったみたいな落ち着き方だ」
買ったのはこのマンションを購入する前だ。
大学の卒業旅行。途中訪れたニューヨークで事件に巻き込まれた。
そのさなか、悠理が裏通りの小さなショップで見つけて購入した、赤い一輪ざし。
あの時、あたいは清四郎と・・・
「ねえ、変だよね?あたい、清四郎と付き合ったりなんかしてないはずなのに、結婚なんかしてないはずなのに」
大学2年生の春。悠理が清四郎への恋に気付いた直後、野梨子が清四郎と付き合い始めたことを知った。
「なんだか、そばにいると一番落ち着きますの。一緒にいてもらえます?」
それがいまいち素直ではない野梨子から清四郎への告白だった。
初めこそ野梨子に幼馴染以上の感覚を持てなかった清四郎も、ゆっくりとだが次第に彼女に惹かれていった。もともとお互いのいいところも悪いところも知りつくしている相手なのだから。
そして悠理は大学3年の夏になってから、魅録と付き合い始めた。
そもそも清四郎への恋に気付いたのも、魅録が彼女を男の目で見つめていることに気付いたことがきっかけだった。
弱った悠理につけこむこともなく、今までどおりの友人の距離で接してくれる魅録の男気に、だけれどときどき見せつけられるぎらぎらとした男のまなざしに、悠理はやはりゆっくりと惹かれていった。同時に清四郎への想いも昇華されていった。
そう。そのはずなのだ。
なのに・・・
「清四郎と、結婚していた記憶がありますの?」
野梨子は静かに問うてきた。
悠理はその顔をはっと見る。だが、悠理の洞察力ではそこになんの感情も見つけられなかった。
自分の夫と結婚していた記憶があるなんて言う女に対して普通は最初に湧くであろう怒りも、そんなありえないことを言い出した人間に対する困惑や不信も。
それが逆に違和感を感じさせる。
「野梨子は?ないの?魅録と一緒に買ったレコードの記憶」
悠理は言いながら、自分の耳の後ろに力が入るのを感じた。
緊張を相手には見せずに、静かに臨戦態勢をとる。野生動物のような感覚。
野梨子はそれを言われても表情を動かさなかった。
数瞬の沈黙が流れる。
だが最初に口を開いたのは、こらえ性のない悠理ではなく、頑固なはずの野梨子のほうだった。
体力がないぶん、持久戦になるとあまり強くないと、本人も自覚しているところである。
「私もね、昨日から変ですの」
ふうっと、一つ小さなため息をつくと、独白しはじめた。
悠理と同じく夜明け前に目が覚めた。妊娠すると眠りが浅くなるとはいうが、こんな初期からとは、とふと考えたところで、何かが違うと思ったらしい。
「本当に妊娠したのは私だったかしら?」と。
そして隣で彼女を抱いて眠る夫の顔を見て、また違和感。
冷静になろうと考えてみる。昨夜は特に変わったこともなく眠りに就いたはずだ。
今日の予定は、清四郎を送り出して家事をいつもどおりにこなした後、悠理とともに可憐に呼び出されてアフタヌーンティーだ。
そうそう、妊婦のカフェインの一日の摂取量には上限がある(清四郎がアメリカの産婦人科の教科書を引っ張り出してきた)。仕事でどうしてもカフェイン量が多い抹茶をすすることが多い身の上なので、プライベートではカフェイン断ちを余儀なくされているのだ。
気の置けない親友たちとはいえ、今はまだ妊娠の話題は自分から吹聴することもなかろうと思っている。でもあのお店でノンカフェインで通そうとしたら、勘ぐられてしまうかもしれない。
そう、あの悠理が青い顔をしてマカロンを一口だけしか食べられなかった時のように・・・。
え?と思った。
どうしてすでに今日の午後の記憶があるのだろう?
それも、自分は何も気にせずシンプルな紅茶をすすり、悠理への祝福の言葉を口にしている記憶が。
「そこで気付きましたの。二つの記憶がありますのよ」
淡々と語る野梨子の顔には、ずっと表情というものがない。
「そして昨日、あなたの様子を見て、あなたにも両方の記憶があるのだと、確信しましたの」
だから、今日あなたがここにくるのはなんとなく予想してましたのよ。と、ここで初めて野梨子は弱弱しくほほ笑んだ。
「これってどういうこと?野梨子にはわかるの?」
悠理はそれまでの緊張を解いて、首をかしげた。捨てられた子犬のようだ。
だが野梨子は小さく首を振る。
「私にだってわかるわけありませんわ。ただ確かなことは、二人ともに二つの記憶を持っているということだけです」
野梨子は悠理よりも頭がいい。いろいろなことを知っているし、考えられる。
その彼女がわからないというのだ。
「ね、清四郎や魅録に相談してみるってのは・・・なしだよね?」
おずおずと提案してみた悠理に、野梨子はふうっとため息をつくことで否定を示した。
「どうやって切り出しますの?」
「野梨子が考えてよ」
実に無責任に悠理が言い放つ。自分で考えられるキャパシティを軽く超えている。
「そもそも魅録の様子はいかが?なにか気付いてそうですの?」
と野梨子が問う。
「いや、たぶんいつも通り。あいつは妙な記憶とかなさそう」
悠理は昨日と今日の魅録の様子を思い浮かべながら言う。いたっていつも通りだったと思う。
悠理も自分の動揺を知らせないように細心の注意をはらっていた・・・つもりだ。
「清四郎もだよね?」
「ええ。清四郎も特に様子がおかしいという感じはありませんでしたわ」
友人たちのことをよく知っている野梨子としては、隠し事が苦手な悠理の様子がおかしいことに魅録が気付いて訝っている可能性も考えなくはないが、悠理の野生の勘がそう言うのならそうだろうと思う。
沈黙。
そして突如野梨子が何かに耐えかねたように、口を開いた。
「考えましたのよ。たくさんたくさん考えましたのよ。これって私たちだけ催眠術にでもかけられたのかしら?って。それとも何か心霊現象なのかしら?って。でもあなたの様子からして心霊現象はなさそうですし、催眠術にしてもこんなに細かい、プライベートな記憶まで操れるものなのかしら?本当に私たちの人生だけ入れ替わったとしか思えませんのよ!」
静かにだが、一気にそこまで言い切った野梨子の瞳がうるんでいる。
「私、ただ思っただけですの。悠理の幸せそうな顔を見て、思ってしまっただけですの。私も赤ちゃんが欲しいって!」
うつむくと、雫が一滴こぼれた。
「もちろん焦っていたわけではありませんわ。まだ若いですし、結婚して一年にしかなりませんもの。なのに、なのに‥‥‥」
と、膝の上で拳を握りしめる野梨子を、悠理は茫然と見つめた。
野梨子が「自分も赤ちゃんが欲しい」と思ったから入れ替わった?
「そんだけで?でも、欲しかったのは魅録の赤ちゃんなんだろ?」
悠理は信じられないといった様子である。
野梨子は少し体を震わせた。
「ほんの一瞬、思いはしましたの。あの時、私が清四郎に告白していたら、いま子どもができていたのは私だったのかしら?って」
そこで顔を上げると、きっと悠理の瞳を見つめた。
「誓って言います!ほんの一瞬ですわ!すぐに思いなおしましたわ。私が欲しいのは魅録の赤ちゃんなんだって!」
野梨子が魅録と、悠理が清四郎と結婚していた記憶の中では、あの春の日に清四郎に告白して付き合い始めたのは悠理だった。
ほんのりとした清四郎への思慕の情を抱えていた野梨子は、だがさほど傷つかず、それよりも悠理を静かに見つめる魅録への想いが育っていくことに気付いた。
思えば魅録のことは早くから男性としてほんのり意識していたような気がする。
そして突如として始まった野梨子の積極的なアタックに最初はとまどっていた魅録も、いつしか彼女の芯の強さにどうしようもなく惹かれていく自分を認めた。
「そんな私がどの首提げて言えますの?いまあなたたちが愛している妻たちは、本当は別の人を愛していたから人生を元に戻して取り替えたいって?」
言われて悠理は愕然とした。
そんなことをあの二人に言えるわけがない。
野梨子はさらに続ける。
「それに悠理は?魅録を愛していませんの?」
瞬間、顔を赤らめた悠理は、ぐっと唇をかみしめた。
「愛・・・してるさ。野梨子も、なんだろ?」
「二人を、愛してますわ」
二つの記憶、それぞれで愛した男たちを、それぞれに愛している。
それぞれと過ごした日々が、それぞれへの愛を形作っている。
「そして、この子はもう、ここで育ってますの」
と、野梨子は手をそっとお腹にあてた。
二つの人生のはざまで悩んでいるその間にも、子どもは着実に大きくなっている。ならば前を向くしかあるまい。
一方で、悠理は心臓をねじり上げられたような気がした。
「あたいの赤ちゃんだ!」
二人の男をそれぞれに愛している。その想いだけでも引き裂かれそうだ。
でも何より確かなことは、赤ちゃんの存在。
「あたいだって二人を想ってるよ。でも、昨日からずっとずっと頭の中で『違う、違う』って声が聞こえるんだ!あたいにとってこの世界は正しい街じゃないんだ!」
あの子がいない世界なんて!
まだつわりを少しばかり感じていただけだが、でも確かにいた!
エコーの画像の中で小さく小さく心臓の鼓動が光となって瞬いていた!
「野梨子がほんのちょっと思っただけでこうなったって言うなら、あたいはもっと強く強く思ってやる!絶対に正しい街を取り返してやる!」
立ち上がって叫ぶ悠理を野梨子はただ静かに見上げていた。
その瞳には、どの道を選ぶこともできない彼女の悲しみが横たわっていた。
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