へ~、全然いつもの顔じゃん。
彼女が思ったのは日曜日。
いつものように宿題や予習なんてことはまったく無視して街に買い物に繰り出していた。
いつもと違うのは今日はイロ物のペットグッズを買いたくて浅草からスタートして上野の動物園へ向かったこと。
歩き出してすぐに目にした光景は珍しいものだった。
視線の先にはちょっと背の高い黒髪の男。
まだ10代だというのに親父臭くオールバックに固めている。
学校でいつも見ているのとは違って、今日の服装はラフにカーキ色の綿シャツ一枚に白いチノパン。
その顔は、というと男らしい精悍な顔立ち、と言えるのだろう。いつもいつも一緒にいるし、いつも彼女のことをバカにしている、それこそ(主に彼女が)鼻をたらしていた頃からの付き合いの男なので口が裂けてもそんなことは言いたくない。
今はその和風かつ印象的な彫りの深い顔に、いつもの生徒会長の顔とも言える外面の微笑が浮かんでいた。
それだけだったら別にまったく珍しいものではない。
何が珍しいといって彼の腕に、彼の幼馴染ではない見覚えのない女の腕が絡んでいたからだ。どう見ても年上の女だ。
べったりと彼の腕に自分の胸を押し付けるようにくっついている。
服装は胸の大きく開いた優しい色のカットソー。地味なレースの飾りが胸元を縁取っている。
下はやっぱり女らしさを強調するためか、かえって個性が押し殺されてしまった流行のふわりとしたスカート。
ピンクを基調としたメイクをした顔はじっと彼の顔を見上げている。
背は160cmよりちょっと低そうだな。ヒールの高いミュールを履いているのに彼の顔を見上げるのが大変そうだ。
(うわ~、い~もん見ちゃった~。)
最初はそう思ったはずだった。
いつも取り澄ましている嫌味な男が女とデートしている現場を初めてつかんだのだから。
そう、自分だって幼馴染ともいえるくらい昔から知っている男のいつもは見られない現場を覗き見する、純粋な興味のはずだった。
そこはホテル街の入り口だった。
彼女はこっそり後をつけることにした。真昼間だというのに二人はホテル街をずんずん歩いていく。
彼女はわくわくしている。いつもいつも自分に意地悪をする彼の弱みをつかめることに興奮していた。
だからいま、胸が痛いほどにどきどきしているのもそのせいだと思っていた。
二人が一軒のホテルに入っていく姿を見るまでは。
ずきん
え?胸が痛い・・・
いや、決定的現場をつかんで興奮してるからだよ。
そう。すっげえどきどきしてるよ、あたい。
苦しくなるほどの動悸だった。
彼女はべっとりと額に汗がにじんでいることに気づいた。
そうだ、ホテルの名前を確かめなければ、とふらふらと建物に近づいていった。
黒っぽい外壁。白い塀に作られた入り口は、建物本体の入り口が見えないように配慮されている。
その手の建物にありがちなつくりだ。
かっちりと四角い外壁の一見したお堅さは今しがたここに入っていった彼女の友人を髣髴とさせた。
塀のすぐ近くまで寄っていったところで誰かが建物から出てくる気配がした。
話し声が聞こえる。
「う~ん、やっぱり日曜日の昼間はいっぱいね。」
「まあこういうところはわざわざ予約してくるところでもありませんからね。しかしあなたが赤坂あたりのスイート以外を望むとは意外でしたよ。」
「あら、赤坂じゃ誰に見られてるかわからないじゃない。あえてこのあたりなのよ。」
「ああ、ご主人の職場はあのあたりでしたっけね。」
塀の外に出たところで、彼は信じられないものを見た。
彼の腕がこわばり立ち止まったので、恐らくは人妻であろう女は不思議そうに夫ではない隣の男の顔を見上げ、彼の視線の先を見た。
そこには目がこぼれそうなほどに目を見張った、少年のような美少女がいた。
一見して10代。大胆に黒猫の模様が入ったカーキ色のTシャツに黄色いカーゴパンツ。
シャツに合わせたのか白黒のボーダーの靴下にカーキ色のスポーツシューズ。
無造作に跳ね回るやわらかそうな猫毛の髪はショートカットで柔らかい茶色だった。
瞳の色も薄いので髪の色も地の色なのかもしれない。
はっきりした目元。すらりと通った鼻。今はぽかんと開かれている口を形作る、ピンクの唇。
少年のような格好がぴったりはまっているが紛れもない美少女だった。
「ゆ、悠理。なんでここに・・・?」
女は自分の耳を疑った。この男のこんなうろたえた声を聞けるとは思ってもみなかったのだ。
同時に、彼がまだ目の前の少女と同じ10代の少年なのだということを急に思い出した。
「誰?お友達?」
ばつが悪そうに苦笑している美少女を手で指し示しながら女は訊ねた。
「え、ええ。学校の友人です。」
「あ、清四郎の友達の悠理です。」
と悠理と呼ばれた少女は目の前の怪訝な顔をする女性にぺこりと会釈くらいの深さで頭を下げた。
「つけてたんですか?」
多少の動揺は押し隠し清四郎と呼ばれた男は悠理を軽くにらみつける。
連中にばれたら大騒ぎされるな。と思いながら。
「いや、えっと、動物園に行こうとしてたら目の前を二人が行くのを見つけて、ついつい明日からかってやれ~なんて・・・」
苦笑しながら悠理は清四郎に言った。もう下手に言い訳をする気もなかった。
いや、彼女にしては珍しく下手に取り繕おうという考えは微塵も浮かばなかったのである。
女は黙ってしまった少年と少女を前に、一瞬考えた。
結論は一つだった。
「ふう。未遂だったとはいえ嫌な現場を見られちゃったわね。気を悪くしないでね。もう金輪際彼とこんなことしないから。」
と一気に言うと、
「口止め頼んだわよ~。」
と清四郎の頬にキスを一つ残して駅のほうへと去っていった。
清四郎のほうはキスをされたことに対しても女が去っていったことに対しても特にリアクションは起こさなかった。
少し憮然とした顔で女を見送っただけだった。
「厄介ごとだけ残して関係は清算ですか。」
と女の現金さに心の中で舌打ちした。だがまあいい。
「悪い。ふられちゃったな。」
と悠理が小さくつぶやいた。
清四郎は耳を疑った。お子様で恋愛の機微も知らず、ましてや不倫なんてものに嫌悪感しか示さないと思っていた悠理がはくセリフではない。
「いいですよ、その場限りの相手ですから。」
今度は悠理が耳を疑う番だった。
確かにこの男が情というものを欠落して生まれてきたことを知っている。
女にもてることも。幼馴染の目の届かないところで多少は遊んでいることも(現場こそ誰も押さえていないが)。
しかし異様なまでに潔癖な幼馴染とともに通学し、嫌味なくらいまで武道もこなし、生臭な師匠とは裏腹に性欲のかけらもなさそうな君子面をしているこの男のセリフか?
「美童じゃあるまいし。」
と思わず悠理はつぶやいていた。
軽薄という二文字は彼のためにあるというくらい様々な女をはしごする金髪のクオーターの友人。
あの王子様然とした外見にだまされた女は数知れない。
「彼のほうがましですよ。それなりに相手に好意を抱いてますからね。」
その清四郎のセリフに悠理はますます困惑を覚えずにはいられなかった。
胸が痛い。張り裂けそうに痛い。
悠理はまるで初めて会う男を見るようにまじまじと彼を見た。
「さてと。悠理はどうしたらあいつらに黙っててくれますか?」
と清四郎はいつもの不敵な笑いを浮かべて悠理の目を覗き込んだ。食事、くらいじゃごまかされてくれませんよねえ。
だが悠理はふいと彼の視線を避けて地面を見つめた。
「心配しなくても言わないよ。」
「おや?そのつもりだったんじゃなかったんですか?」
と清四郎は片方の眉を上げながら訊ねた。
「・・・そんなセリフをあいつらに聞かせられるわけないだろ。」
特に野梨子には。いくらあいつがあたいより強いからってこんなの聞かせられない。
可憐だってなんだかんだとショックを受けるだろう。夢見る少女だし、倶楽部の男どもには信頼を置いている。
清四郎はふう、と溜息をついた。やっぱり実は野梨子よりも潔癖症な悠理には刺激が強すぎたか。
「そういう男もいるって知らないあなたでもないでしょうに。男友達はたくさんいるんでしょう?」
魅録を含め、学外に多数の男友達がいて男同士のようなつきあいをしている悠理だ。柄の悪いのも多いようだからそういうのが混じっていても不思議はない。
「本当に男って愛がなくても女を抱ける生き物なんだな。」
結局彼女はそういうわけではない男しか知らないのだろう。もしくはさすがに彼らも悠理の前でそんなそぶりを見せられないのだろうな。
まあ彼女と一番仲の良い魅録は絶対に愛もなく女は抱かないだろう。彼はああ見えてそういう方向には真面目すぎるほどだから。
そのとき、目の前の幼さを全開にした少女に少々意趣返しをしてやろうか、と思ったのはなぜだろう?後で思い返してもどうしても彼は思い出せなかった。
ただ、彼女がいつもの調子を取り戻すことを望んだだけなのかもしれない。
「一応相手が女性に見えていることが大前提ですよ。」
と言った清四郎の口調にからかいの色が含まれていることに気づかない悠理ではなかった。
「なんだよ、それ。あたいへの嫌味か?」
ちろり、と上目遣いに彼をにらむ悠理に、清四郎はいつもの調子を取り戻せることを確信した。
「別にそうは言ってませんよ。悠理のことが女に見えたことがないってのは確かですけど。」
その言葉にまんまと踊らされる彼女はやはり、彼というお釈迦様の掌で踊らされる孫悟空なのだろう。
かっと目を見開くと彼の胸倉をつかんで叫んだ。
「あ、あたいは女だ!バカにするな!」
くすくす笑いをしながら彼女に胸倉をつかまれていた清四郎だったが、ふと周囲の視線に気づいた。
道行く人々が呆れたような、何かを含んだような視線をちらちらとこちらに向けていた。
「さすがにこんな場所でする会話じゃありませんでしたね。」
彼らに自分たちはどう映っているのだろう?
まあ、痴話喧嘩が妥当なところか。
そのうっすらと目元に朱を帯びて言う清四郎のセリフに悠理は耳まで真っ赤になって俯いた。
もともと周囲の目を気にする彼女ではない。ここがどういう場所か思い出して恥ずかしくなったのだ。
「まあせっかくですからあなたが女性だということを確認させてもらってもいいですけどね。」
そのセリフは冗談のつもりだった。
せいぜい彼女から罵られて終わるだけだろうと思っていた。
そうして元通りの明日がやってくると、そう思っていたのだ。
「わかったよ。思う存分確認しやがれ。」
と悠理が答えるまでは。
その瞳の熱いほどのきらめきに、清四郎は目眩を覚えた。