2015/03/03 (Tue) 22:21
それは日本を出発する日。空港で。
「美童?」
剣菱の専用機の準備が整うのを待つラウンジで、ちょっと元気なくうとうとしていた(そりゃあ朝までさんざ女とやりまくってた)美童が、急にぴくりと肩を震わせ頭を起こしたのだった。
「Ave verum corpus・・・。」
と、彼はあたしの知らない言葉で呟いた。
「あべ?」
首をかしげたあたしの顔を彼は一瞬じいっと見つめて、
「いま、流れてる曲。」
と苦笑した。
それであたしにも空港内のBGMのことだとわかった。可愛らしいオルゴール曲だった。
「綺麗な曲ね。」
呟いたあたしから美童は目を逸らし、
「そうだね。」
とだけ、曖昧な笑みとともに言った。
もともと、この冬休みは年末の数日を香港で過ごすことになっていた。もちろん悠理の希望だ。
そして悠理はとんでもないことを言い出したのだ。25日の朝に。
「可憐!今すぐ行くぞ!今日のおやつから香港だ!」
「なに言ってるのよ。明日の予定だったじゃない。」
みな一様に呆れたが、
「どうせ誰も今日の予定は入ってないんだろ。いいじゃん、1回でもたくさん九江の料理食べたい!」
と、強引な悠理に押し切られる形で、1日早く出発したのだった。
そして3日が経ち、あたしたちは香港の街を歩いている。腹ごなしのために。
明日は東京へ帰る。美容のためにもあまり食べ過ぎたくないのに、ついつい九江の料理は箸が進む。あと一口だけ、あと半口だけ、とつい手が伸びてしまうのだ。だからあたしは一刻も早く東京へ帰りたいくらいだった。
香港はやっぱり暖かくて、薄手のコートを羽織って歩くだけでも汗がにじんできそうだった。
魅録なんか長袖のTシャツ一枚で歩いている。
あたしは野梨子とまだクリスマスの飾り付けが残っている街の景色をあれやこれやと言いながら歩いていた。
「中華圏では日本みたいに新暦の正月を祝うことはなくて、旧正月のほうが重要なんですよ。」
これもそうなのだという。だから年が明けるまでは欧米と同じくクリスマス休暇なんだそうだ。(もっともアメリカあたりではHappy holidayとか言ってるんだって。)
黒いジャケットを羽織っただけの倶楽部一の薀蓄男がさかしらに言った。
悠理などはそれも耳に入らぬ様子で屋台で買った串焼き肉にかぶりついていた。
そういうキリスト教圏の風習ならこの薀蓄男より・・・とあたしは見渡して、美童がいないことに気がついたのだった。
「美童がいない。」
そういやさっき携帯が鳴ってたっけ?と思って振り返ったら、圧倒的に黒い頭が多い雑踏の中、背高のっぽの金髪がぽっかりと遠くに見えた。
ちょうど野梨子が悠理のほうに気をとられたところだったので、あたしはそのキラキラの金髪に向かって駆け戻った。
見ると、彼はすでに通話が終わったらしく閉じた携帯を握り締めじっと見つめたまま、固まっているようだった。
「美童?どうしたの?」
あたしは首をかしげて話しかけた。彼の顔があまりにも空虚だったから。
その声に、美童は我に帰ったようだった。
それから数瞬の間を置いて口を開いた。思わず口が滑ったように。
「知り合いがね、亡くなったんだ。」
ぽつりと言った声はあまりに彼のいつもの口調と変わらなくて、あたしは一瞬その意味を考えた。
「え?じゃあ戻らなくちゃ。」
悠理に言って、来た時と同じように1日早く飛行機を飛ばしてもらって・・・と頭をめぐらせたあたしに、美童は小さく首を横に振った。
「いや、いいんだ。お葬式には僕は行かないほうが。」
そうして、彼はあたしの顔を見つめた。
どくん。
なんで、すぐ目の前のあたしの顔を見るのに遠くを見てるの?
なんで、そんなに懐かしそうに目を細めるの?
この目には何度か見覚えがある。
初めて彼と会ったとき。日本に来たばかりの15歳の彼をディスコに連れて行こうと顔を合わせたとき。
今よりも幾分か幼い顔だったけれど、けれどあたしたちより数段大人びた顔で。
あたしを見つめたのだ。
懐かしい人に会えた。
彼の目がそう語っているようで。
あれから4年。今のあたしには、あの目の意味も、今のこの瞳の意味も、わかる。
美童は少しの間そうしてあたしを見つめていたけど、ふと、気づいたように振り返った。
遠くから、
「びどー!かれーん!なにやってんだよー!」
と、悠理が怒鳴っていた。
「いま行くよぅ。」
と、美童は手を振り返した。
「美童?本当にいいの?」
あたしは恐る恐るいつになく真面目な顔をしている美童の顔を覗き込んだ。
「慰めてくれる?可憐。」
いつものおどけた笑みを浮かべてふざけて見せる美童に、あたしはむっと口を尖らせた。
「バカ。泣きたいときは泣きなさい。あたしたち、親友でしょう?」
皆、親友でしょう?水臭いわね。
あんたの泣き顔なんて見飽きるほど見てるんだから今更なのよ!
「そうだね。ありがとう。可憐。」
美童はただ、端然と微笑んだ。
あんたの笑顔は、女性をとろけさせるその笑顔は、あんたが本音を隠すためのマスクなんだって、あたしが気づかないとでも思ってるの?
何度こいつのこの姿に幻滅したことだろう。
夜。さすがに香港の最後の夜はロマンチックなバーで飲んで過ごそう、ということで、あたしたちは飲みに出かけていた。
綺麗な女性と見ると声をかけようとしたり、ウインクを投げかけたり。美童の様子はどこへ行ってもまるで同じで。
初めて顔を合わせたあの夜に、こいつはいきなりこういう態度を見せ付けてくれた。あたしは一瞬で恋愛対象からはずされたのだ。
今だから言おう。あたしはあの時、めまぐるしく恋に落ちて、すぐに失恋した。
そう。美童に。
「美童の様子がいつもと違わねえか?」
偽りの笑顔に騙された女性と話し始めた美童の様子を目の端に捕らえて最初にあたしの耳元で囁いたのは、魅録だった。
「そーか?ナンパしまくってるのはいつもどおりじゃん。」
悠理にも聞こえたみたいで、あたしの隣で首をかしげる。
「あれはなにかありましたね。」
「なにか聞いてませんの?可憐。」
なんであたしにそれを訊くのよ。と思いつつも、やっぱり正解を持ってるのはあたしだけだったわけで。
「たぶん、昔のオンナだと思うんだけど、知った人が亡くなったんだって。」
「って昼間の電話か?」
悠理が眉を上げる。野梨子は静かに目を見開き、清四郎と魅録は二人で顔を見合わせた。
「お葬式には行かないつもりらしいけど・・・。」
眉をしかめながらあいつのほうを見るあたし。
皆は今度は4人で視線を交錯させたようだった。
「じゃ、あたいらは別の店に行くわ。」
「私は先に帰りますわね。」
「そうですね。送りましょう。」
「じゃあ、美童を頼んだぞ、可憐。」
と口々に言って、店を出て行った。
そうして目の前には盛大に飲んだくれて管を巻く男。と行きたいところだけど、美童はちっとも酔っていなかった。
そうだね。美童はお酒が強いんだものね。
「今年のクリスマスは楽しかったね。」
うふふ、と美童が笑う。
「そりゃそうでしょ。あんたは熱い夜を過ごしたみたいだしぃ?」
あたしはわざとそっけなく言う。
美童は4人がこの場から消えていてあたしだけが残っているのを見ても、
「あれ?可憐ひとり?」
としか言わなかった。いつもみたいに文句は言わなくて。
ただ急におとなしく杯を重ね始めたのだった。
「部室でさ、終業式の日に食べたクリスマスケーキ、美味しかったよ。」
あまり脈絡のないことを言い出した美童にあたしはちらりと彼のほうを見た。
すこーし、やっと少しだけ、酒が回ってきたのかしら?
「ありがと。」
終業式。クリスマスイブ。学校の礼拝堂で朝っぱらから開かれるミサが終業式の代わりだった。
そしてあたしの差し入れた手作りのクリスマスケーキを食べてから部室のツリーを片付けて、それぞれのイブの夜へと解散したのだった。
あたしはもちろんセレブ男とのデートへ。
目の前のふざけた男は、とびきり不実でとびきり熱い、掛け持ちデートへ。
「毎年クリスマスケーキを食べられて、僕らは本当に、幸せだよね。」
そうして彼は昼間みたいにあたしの顔を覗き込んだ。
「彼女、あたしに似てたの?」
言うと、彼は少しだけ口の端をあげた。
「全然、違う。だけど、黒子が・・・。」
と、彼の白くて長い指があたしの目元へとさまよった。
あたしは静かに口を開いた。
「同じ場所に、黒子があったんだ?」
「うん。」
「彼女、クリスマスケーキを食べられなかったの?」
「うん。」
「・・・15歳のあの時、彼女と別れたばかりだった?」
即答を繰り返していた美童が、ちょっとだけ黙り込んだ。
「参ったね。そこまでお見通し?」
「あれから4年も親友やってるんじゃない。」
あたしが、ん、と唇を引き結ぶようにして笑んでみせると、美童の顔が泣きそうに歪んでから、背けられた。
「だね。」
と言いながら、カウンターに肘をついた手の指を組んだ。
組み合わせた指に俯いて額を当てる姿は、まるで教会で額づいて祈りを捧げているかのようでもあり、あたしはそこがバーの中だってことを忘れそうになった。
「Ave verum corpusはね、キリストの受難の歌なんだよ。」
生誕の歌じゃないのにモーツァルトがあんなに明るく作るからさ。と。
美童はぽつりと呟いた。
すうすうという安らかな吐息の繰り返しをBGMに、あたしは携帯の短縮番号を押した。
「あ、魅録?悠理もまだ別荘まで帰ってないわよね?」
どうやら清四郎も野梨子を送った後でまた出てきているようだ。まああたしが男二人を呼びつけるのを予想してたはずだしね。
「うん。酔っ払いをあんたたちで運搬して欲しいの。」
おいおい、美童は荷物かよ、と言いながら魅録が電話の向こうで苦笑しているのが目に浮かぶ。
なに言ってるのよ、今更。
あたしは美童の一番の理解者、のつもり。
少なくとも倶楽部の皆にもそれは認めてもらってるはずだ。
だからあたしを残していった。
でも、ここにあるのは恋愛感情じゃない。
ちょっとは似てるかもしれないけど。
恋じゃない。だけど愛してる。
それは友情にも似てて、家族愛にも似てて。
だから美童も同じだろうから、たぶん一生あたしに恋はしてくれないんだろうね。
ほろり、と一滴涙が零れる。
美童が恋した彼女は、クリスマスケーキが食べられなかったんだね。
日本を発ったあの日には、危篤だって知ってたんだね。
あんたがそんな風に言うってことは、彼女はかなりの苦難に遭ってたんだね。
あたしは見も知らぬその女性の最期を思い、もう一滴涙を零した。
(2005.12.17)(2005.12.23加筆修正)
(2005.12.24サイト公開)
(2005.12.24サイト公開)
PR
Comment
カテゴリー
最新記事
(08/22)
(08/22)
(03/23)
(03/23)
(03/23)
メールフォーム