2015/03/03 (Tue) 22:40
ざああ、ざああああ、と不規則なリズムに波がうねっている。
その昔、あまりに穏やかなことから“太平の海”、太平洋と名づけられたはずの海は、空の青を写しとりながらも大きく身を捩じらせるようにうねっている。
「すごい波だね。」
「土用波と言いますのよ。」
晴天の空の光を浴びて鮮やかに金髪をなびかせる男は、傍らの小柄な黒髪の少女を見た。
「どよう?」
「今の時期のことですわ。立春・立夏・立秋・立冬の前18日間を指しますの。特に夏の土用だけを指すことが多いですけれどね。」
土用の丑に鰻を食べるというのは、この時期が一番夏ばてしやすい時期だからですのよ。と少女は続けた。
そして、この時期には沖合いを台風が通過することでサーファーが好みそうな大きな波が打ち寄せるのだと。
そうして二人はしばし黙る。
波が爆ぜた細かな飛沫が二人の髪に、身体に、じっとりと染みこんでいく。
少女の白いワンピースも、どことなく重たげに彼女の身体にまとわりついている。
うねる、波。
男は眩暈を覚える。
隣に立つ少女の存在が、男の目を眩ませる。
波のうねりが、男の血潮をもうねらせる。
「どうしてさ。」
ぽつりと呟いた言葉は存外に静かだった。
「どうして、とは?美童?」
訊ね返す少女の声も穏やかだった。
「野梨子は、清四郎に好きだと言われたんだろう?」
「それがどうかしまして?」
与えられた即答に、男はふう、と一つ溜息をつく。
「それならどうして、ここに来たのさ?僕の誘いに乗って。」
幼馴染同士で、完結してしまえばいい。似合いの一対。
だけれどそう思いながらも、ひそかに彼女にメールしたのは、彼。
この、海へと。
野梨子は困ったように笑んでから、顔を海の方へ向けた。
「この波に、足を浚われたくなったのですわ、たぶん。」
瞬間、美童は野梨子を抱きしめる。
彼の金色の髪が、彼女の黒髪にふりかかる。
飛沫が、ふりそそぐごとく。
雫が、流れ落ちるごとく。
わかっていた。彼女が太平の静かな愛に満足できる女ではないこと。
わかっていた。彼女は己の同類に心惹かれるようなナルシストではないこと。
わかっていた。彼女は、激情に身を委ねたがっているだけだということ。
そこにつけこんだのは、彼。
「わかっているの?野梨子。」
「なにがですの?」
「このまま僕と進むってことは、もう引き返せないということだよ。」
あのぬくぬくとした少女の日々には二度と戻れぬ。
あの無垢な少女の日々には二度と戻れぬ。
ひとたび、女になってしまったなら。
「わかって、いますわ。」
野梨子は美童の甘い匂いのするシャツに顔を埋め、囁くと、顔の横に下りてきている彼の髪をぐいと引いた。
そのまま、金色の籠の中で二人の唇が重なる。
ざああああん、ざああ、ざあああ、ざん。
不規則なリズムでうねる波。
二人の鼓動も、速く、遅く、波にあおられ不規則に打つ。
彼女の激情が愛なのか、惑いなのか。
ほんの少しの疑いが彼の鼓動をあおる。
唇を離すと、二人の間に透明な光の糸が伸びて、消えた。
「私を、流して、変えてくださいな。」
懇願するように誘惑する彼女の耳元に、彼はただ一つの真実を告げる。
「愛してるよ、野梨子。」
すべてを流す土用波。彼女の足元を、浚ってしまえ。
───私も愛していますのよ、美童。
彼女が心の中で囁いた声は彼の耳に届くことはなく、逆巻く波間に飲まれて、消えた。
(2006.8.22)
(2006.8.23サイト公開)
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