2015/03/03 (Tue) 22:44
窓の外を見ると、黒々とした木々が大きくなびいて見える。
防音が効いたガラスを隔てていても、空気と空気が、空気とモノとがこすれて起こるびょうびょうとした音がかすかに聞こえる。
「まさしく、二百十日、だな」
ぽつりと呟いた男は、思わず己の上腕を己の手で押さえつけるように握る。
気圧が下がる。
すさまじいエネルギーの塊。
相対的に外の圧よりも高い圧である己の体液が沸騰しそうな錯覚にとらわれる。
気圧が下がると関節が痛むとよく言うが、それはそうだろう。こんなにも外へ外へと引きずられてしまうのだから。
熱い血が躍りだそうと、脈打つ。
かちゃり、と音がしてドアノブが回った。男は目を庭の前栽のほうからそちらへと向けた。
「おはよ、清四郎。すごい風だな。ガッコ休み?」
「おはよう、悠理。ええ、始業式は休みだそうです」
清四郎は、寝巻きのまま客用寝室から彼の部屋へやってきた彼女に一瞥くれただけで、また顔を荒れ狂う庭へと回す。
「ちぇ。せっかく泊り込みで宿題仕上げたのにぃ」
今日は9月1日。例年のごとく山のごとく溜めてしまった宿題をこなすべく、悠理は3日前から菊正宗家に泊り込んでいるのだった。
「まあちょうどよかった。作文なんかをじっくり書き直す暇ができたってことですね」
窓辺に置いた椅子に腰掛けている清四郎はにやり、と口の端を上げて、傍まで寄ってきた悠理を見上げた。
「えー、つまんない、せっかく休みになったのに」
悠理は大きな目を見開いて口を尖らせた。
それはもちろんこの台風の暴風圏の中、どこへ出かけるというわけでもないが。
清四郎はふう、と一つ溜息をつくとなんでもないことのように続けた。
「家に帰りますか?どうせここにいてもお袋も姉貴もいませんし、ね」
菊正宗家の女性陣は遅い夏休みをとって二人で北海道に旅に出ている。一家の主の仕事には台風もなにも関係ないのですでに出勤している。
「でもいま名輪呼ぶのも悪いしな。父ちゃんや兄ちゃんのために待機してるんだろうし」
剣菱家の優秀な運転手は、どんな悪天候の中でも剣菱家のために正確な運転をこなすのだろう。それゆえのプロの運転手なのだ。
だがさすがの悠理もこんな中で私用に呼ぶのは気が引けていた。
そこで彼女はふと思い当たった。
「あれ?もしかしてお手伝いさんもこんなんじゃ来れない?」
「そうですね、今日は休みにしてもらいましたよ」
いくら悠理でも1日じゃ食べきれないくらいの食糧はありますしね、と清四郎は薄く笑んだ。
「ていうかお前と二人きり?」
「何を今更」
悠理があからさまに顔を顰めているのは見ずともわかる。
そう、いつものこと。悠理が清四郎の家に泊まりこみで勉強会をするのも、何かの拍子に二人きりになることも。
どうせ悠理は倶楽部の男どもの前で自分が女だなどと思ってはいないし、誰も間違いが起こるなんて思っていない。
そう。今更、だ。
清四郎はほんの少しだけ腹に力を籠める。
体温を感じるほどの距離に立つ彼女に気づかれないほどに、ひそやかに、ひそやかに。
そうしていないと、圧力の下がった大気では彼を押し込めていることができそうもない。
視線の先には、幼馴染の住む隣家。
あの気高く冷ややかで、静かな調和の世界にいる幼馴染の顔を思い浮かべることで、なんとか自制する。
彼の人の黒い瞳は、彼を圧するに足る力を持っている。
そう、それがたとえすでに他の男のものになっていようとも。
「やっぱりあたい、帰る」
名輪には悪いけどさ、と不意に不機嫌そうに女が言い出したので清四郎は少しく目を見開きながら再び彼女の顔を見上げた。
悠理の表情は奇妙に歪んだままで、視線は清四郎ではなく今しがたまで彼が見ていた方角を向いている。
「なに言ってるんですか。危ないですよ」
舌の根も乾かぬうちに、彼は先ほどとは逆のことを口にした。最初に「帰りますか」と訊いたのは彼なのに。
「だってあたいといてもお前だってつまんないだろ?」
宿題も明け方には仕上がったし、さ。と悠理は体を翻そうとした。
「待て」
短く一言口に出し、彼は彼女の手を掴んだ。
悠理は顔を俯け立ち止まる。
数瞬の、沈黙。
ごうごうと言う風の声がますます高まる。
ガラスを隔てた中は、水を打ったように静かであるのに。
悠理はほんの少し、震えていた。
俯いたために伸ばされた白いうなじにかかった後れ毛がほんのかすかに、揺れる。
窓の外では大きく草木が揺れているのが嘘のように、かすかな動き。
「野梨子はさ、お前には振り向かないよ」
ついに開かれた彼女の口からつむぎだされたのは、一つの事実。
「知ってますよ、そのくらい」
彼女の声と同様に、彼のその声もまったく無感動な色をしていた。
「じゃあ、なんで見てるんだよ」
「あなたには関係ありません」
確かに、彼女には関係ない。
この男が、彼らの親友であるうちの一人の男のものになった幼馴染の少女に懸想していても。
かの少女だって彼女の幼馴染で親友であろうとも。
気圧が、ますます下がる。
台風の目が近づいているのに違いない。
清四郎の血の沸点が、下がる。
「どうせ、野梨子に振り向いて欲しいなんて思ってもないし、振り向かれても困るんだ」
え?と振り向いた悠理はそのまま清四郎の腕に包まれた。
ぎゅう、と抱きしめる手の力に、悠理は抗うことなどできなかった。
血が躍りだしそうなのは彼女とて同じなのだから。
気圧が、下がる。
満ち溢れるエネルギーに、翻弄される。
「お前の前では、僕は僕じゃなくなってしまいそうなんだ」
だから、野梨子に傍にいて欲しかったんだ。
「せいしろ・・・?」
「お前が欲しい」
少しだけ体を離して、清四郎は悠理の瞳を覗き込む。
そこにあるのは、互いの熱情。
低くなった沸点に、血が躍りだす。
「お前を傷つけるかも知れない。それでも、いいか?」
悠理は思い出す。先日、恋多き女、可憐が言っていたセリフ。
───清四郎は、逃げてるだけなのよ。冷静な大人ぶりたいだけ。
冷静でいられなくなる自分を認めたくなくて逃げているのだという、この男が。
そのときは悠理には意味がわからなかった。
───そのうちわかるわよ。あいつが本当に好きな相手が。
可憐なのだろうか?
そう思ったら胸が痛んだ。
だけど、今の悠理にはわかった気がする。
この男の熱い瞳が、熱い体が、わずかばかり浮かんでいるこの男らしくない怯えが、真実を物語っている。
そして、その真実が彼女の体を熱くする。
「いいよ、清四郎なら」
そう言うと彼女は瞳を閉じた。
窓の外は、嵐。
部屋の中も、嵐。
二百十日。嵐が来る日。
(2006.9.15)
(2006.9.15公開)
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