2015/03/03 (Tue) 23:09
それは本当に偶然で。
たまたまデートの帰りに、駅の改札が目に入った。
たまたま、学校の最寄り駅を経由して自宅のほうへと向かう電車があと数分で入ってくるところだった。
いつもだったら目に入らない駅の改札が、彼の蒼眸に留まった。
いつもだったらタクシーを捕まえて帰るところなのだけれど、気がつくと久しぶりに切符を手にしてホームに立っていた。
ただの気まぐれ。
本当は電車はあまり好きじゃない。
学園の皆は彼の容貌に慣れてしまっているから、憧憬や嫉妬の目で見られることはあっても好奇の目で見られることはない。
それが電車や人ごみの中では違う。すれ違う人が皆彼を振り返る。その視線。視線。
彼自身15歳のときから日本の東京で暮らし、そのような視線にさらされるのは慣れているし、ある種の快感はもちろん感じている。だって皆は僕の美しさに見蕩れているのだもの。
そうは言ってもそのような視線の集中に疲れてしまうのは確かだ。できれば1日の終わり、せっかくのデート帰りの上機嫌をそんなことで台無しにはしたくない。
しかしこの終電間際のプチラッシュの時間は違う。人の数こそ多いが、過半数は仕事帰りの会社員に酔っ払い。彼らは他人を気にする余裕などない。明日に向けて少しでも気力体力を温存するために殻に閉じこもっているのだ。
意外とこの時間は誰からも見られないのだな、と知った彼は時々気まぐれに深夜の電車を利用している。
単に僕が疲れているから視線が少ないように感じるだけなの知れないけれど、と彼は中空に浮かぶ満月を見つめながら静かに電車を待つ。
端正な横顔に突き刺さる視線にはもちろん女性からの熱視線も混ざっているから、うかつな顔は見せられない。
音楽が鳴り、静かに電車が滑り込んでくる。
駅の光景などどこの国でも同じであって不思議はないのに、やっぱり行く先々で全然違う。
日本の駅は落書きなんかは少なくて車内も綺麗だけれど、やっぱりアジア的な雑多さを感じてしまう。ホームを埋める人たちの髪が黒いから、というだけではない。ごちゃごちゃとした吊り広告。駅の壁も車内も、統一感のないデザインの広告で埋め尽くされている。
しゅっという軽いエアの音。そして、ごとごとと小さくタイヤが転がる音をさせながら扉が開いた。ガラスにべたりと貼られた女優の笑顔が戸袋に飲み込まれて消えた。
彼は春先とはいえ肌寒い夜気とともに、人の体温と炭酸ガスとでモワリとした暖かさのある車内へと足を踏み入れた。
空いている席を見渡そうとしたところで、向かいのドア際の座席に座る女が目に入った。
ゆるくウェーブのかかった茶色の髪。きちんとケアがなされていて、東アジア人種特有の整ったキューティクルは健在だ。
春物のベージュのトレンチコートは平均的な体格の彼女をほっそりと見せていて、肩にかけられた薄い生地のストールはほんのりと淡いピンクの匂い。
コートの裾から出ているのは恐らくは短いスカートではなくて見事な脚線美を描く足。もちろんぴったりと膝をあわせているから中を覗こうなんてできないのだが、紫にラメでキラキラとした銀河があしらわれたストッキングが男の目を誘う。
座ったままで手すりを握る手の指先にも星をかたどったラメが輝いている。
今は俯いている顔も肌理の細やかな血色のよい肌に、目元を黒子と言う星が飾っていることを彼は知っていた。
そうだ。彼女の姿を真っ先に目に留めたのは、彼女が美しいからでも扇情的な脚を見せているからでもなく、一番最初に目に入る場所に見知った姿があったからというだけだった。
「可憐?」
酔いつぶれて寝ているのだろうか?と思いながら声をかける。
「ん?」
と言いながら彼女は顔を上げる。寝ていたわけではなかったのか。
瞬間。彼女の目が濡れているように見えた。
けれど、彼の姿をはっきりと捉えて見開かれた目許は乾いており、丹念にほどこされた化粧もちらとも崩れてはいなかった。
「あら?美童?珍しいわね、あんたが電車。」
彼は自分が時折深夜電車に乗っていることを仲間には話していない。別に改めて話すほどのことでもないし、会話の流れがそんな方向へ向いたこともなかったから。
「可憐こそ、スリに遭いたいわけ?珍しく夜遊び帰りに電車なんか乗っちゃってさ。」
「別に寝てなんかなかったわよ。」
いかにもデート帰りと言う風体のまま隣にどっかりと座る美童のほうに目も向けず、可憐は手すりを握る左手に頭をもたせ掛けた。
実際、彼女が深夜電車に乗っているのは珍しいだろう。金持ち連中が多い聖プレジデントにおいて彼女は電車通学をしている。だが、さすがにこんな時間の帰宅すらタクシー代をけちって電車に乗るほどの庶民でもない。母子家庭ではあるが歴とした宝石商のお嬢さん。水準以上の暮らしはしている。
それに彼女には・・・。
「魅録に迎えに来てもらえばよかったのに。」
魅録。彼らの親友の一人。ピンクに髪を染めハードロックに興じ、レーサー並みのテクニックでバイクや車を操る男。
いま現在は可憐の彼氏、だったはずだ。
これまでの薄利多売の恋を捨て、堅実で誠実な彼への恋を選んだ可憐は、倶楽部の連中以外との夜遊びはやめていた。
「あんなつまんない男、飽きちゃったわ。」
彼女は身じろぎもせずに言った。
「・・・本気?」
と、美童は思わず可憐のほうをまじまじと覗き込んだ。
魅録に惚れたのは彼女から。お互いに夜遊び好きで派手な外見をしているが、倶楽部の中でも真面目なモラリストの二人だ。なんだかんだ言っても清純な二人はとても微笑ましく仲のよいカップルに見えたが。
「そ。本気よ、本気。今日のパーティーのメンバーはちょっと不作だったけろぉ、まぁた次よ、次。」
ややろれつの怪しいゆっくりとした口調で彼女はそのように言った。一種投げやりとも取れる。
美童はふう、と溜息をついた。
折りよく、電車は次の駅に進入するべく減速し始めたところだった。
「可憐、酔いすぎ。ちょっとこの駅で酔いさまして行こう。」
と、ぐいと彼女の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
知らない駅だった。いつも通り過ぎるだけで降りたことはない駅。
とりあえず駅前にベンチを見つけて並んで座った。
可憐はまたも俯いてしまう。美童が差し出したお茶のペットボトルを片手だけ上げて受け取った。
「月、見ないの?綺麗だよ。」
美童は自分の分のボトルの蓋を開けながら座りしな、言った。
「見ない。」
俯いたままの可憐の顔は長い髪で隠れてしまって見えないが、声は存外しっかりしていた。
「まあ、可憐にとって魅録はつまんない男だろうね、実際。」
美童が淡々と言うと可憐の肩が少しだけ揺れたが、彼は見なかった振りをして残酷な事実を告げた。
「だって可憐みたいないい女に惚れられてるのに、野梨子に惚れちゃうんだから、さ。」
すると、一瞬の沈黙の後で、可憐がぽつりと呟いた。
「やっぱあんたは気づいてたんだ。」
「まあね。あいつら必死で隠してるみたいだけど、互いに惹かれあってるのばればれなんだよ。」
生徒会室で、校内の廊下と校庭の間で、仲間と遊ぶクラブで。
あの二人がこっそりと息を潜めて熱のこもった視線を互いに投げかけていることに気づかない美童ではない。
そしてその視線が瞬間絡まり、不自然なまでに逸らされていることにも。
もちろん可憐への遠慮があるのだろう。二人ともにその感情を口にすることはついぞなかった。
「本当、あいつらバカ正直だから、ね。」
と可憐は、く、と短く詰まった笑いを漏らした。
そしてぐっと一度手に持ったまま開封していなかったペットボトルを握り締めると、顔をがばっと上げた。
まん丸な月が、こちらを見ていた。
可憐は月を見つめたまま、再び口を開く。
「あたしの価値がわかんないようなつまんない男、意地悪でイヤミな野梨子に熨斗つけてあげるわよ。」
「はいはい。」
いつのまにか美童の腕が肩を抱いてくれていた。そのまま引き寄せられ、彼の肩に頭を乗せた。
美童の匂いがする。と瞼を伏せたとたん、剥がれ落ちるように温かい雫が目尻から零れた。
あとは、洪水。
「う・・・───・・・」
「よしよし。」
と美童はずっと可憐の髪を撫でてくれていた。
「バカー。優しくするなー。泣きやめないじゃないー。」
「あー、ごめんごめん。」
子供をあやすような彼の口調に、可憐はびーびーと泣き続けた。
月は光ってる。
地球に近づくことも遠ざかることも出来ず、ただ周りをくるくると回るだけ。
その光だって太陽の光を映しているだけの偽物の光。
まるであたしみたい、と可憐は思った。
ひっくひっく、としゃっくりをあげる彼女の目の前に、美童は日本人男性ならまず似合わないサーモンピンクのジャケットのポケットから小瓶を取り出した。
「はい、これ上げる。」
「なによこれ?オムのコロンじゃない。」
20グラム入りのミニチュアビンに入ったそれは、美童が愛用しているものとは全然違う香だった。
「今夜デートしてた彼女がコロンの収集に凝っててね。部屋のインテリアに上げるって言われたんだ。でも僕、コロンの瓶を飾るような趣味はないしね。」
苦笑している美童に可憐は首をかしげた。涙はほとんど乾いているが化粧は見事なまでにはげちょろけになっていて、その仕草がとても幼く見えた。
「あたしだってこんなの飾る趣味ないわよ。」
「飾るんじゃないよ。つけるの。」
言われて彼女は、ああ、そうか、と思った。
「僕の残り香をつけてっちゃ僕が魅録に殴られるしね。僕が普段は使わないやつを持っててちょうどよかったよ。」
「はは、そうね。ありがと。」
彼女はその小瓶を大事にハンドバッグの中に入れた。
これも中身は本物だけど、でも偽物。こんな小瓶ではその成分を長く保つなんてできないもの。
「ホントはね、嘘の片棒なんか担ぎたくないんだけどね。可憐ってば自分で思ってる以上に正直者だし。」
「なに言ってるのよ、今更。」
これは絶対にばれてはならない嘘。
下手すると一生隠し通さないといけなくなる嘘。
可憐は、奥手な魅録なんかに飽きてしまった、悪女。
偽物の愛なんかいらない。
だから彼女は偽物の恋に興じる振りをする。
イミテーションの煌きは安っぽくてぺかぺかしてて、どことなく寂しい。
偽物の香をつけて魅録と対するだろう自分はたまらなく安っぽくてぺかぺかしてて、哀れなんだろう。
「タクシーで帰らなきゃ。こんな顔で駅にまた入るなんてできないわね。」
はきはきと言う彼女はもう普段の顔の仮面をつけている。
「だね、タクシー代はお詫びに奢るよ。」
「いいわよ。コロンまでもらっちゃって、口止め料がないじゃない。」
「じゃあ僕が奢るはずだったタクシー代が口止め料ってことでいいよ。」
美童の口調はやっぱり優しい。いつもは全女性に大盤振る舞いする分の優しさを彼女たちにはけちっているのに、こんな時ばっかり優しい。
ホント、反則よ。その優しさこそイミテーションだってのにね。
可憐はにまり、と笑むと、
「じゃあ交渉成立ね。」
とウインクして見せた。
たぶんこいつはまた彼女が泣きそうになってたら現れてくれるんだろう。そんな気がした。
(2006.2.20)
(2006.2.24公開)
(2006.2.24公開)
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