2015/03/04 (Wed) 23:03
滝
ざあざあと轟音を立てて水が重力に従っている。
悠理は細かな飛沫を浴びながらそれを見上げた。
「結構大きいな。」
「ええ、そうですね。」
東村寺の合宿に行くという清四郎に、悠理は無理についてきていた。
とにかく暇だったから。
合宿所となっている寺の近くにそれはあった。
高さ10メートル幅5メートルはありそうな滝だった。
「お、この岩場上れそうだな。」
と、悠理は手近な岩に手をかける。
「濡れてて滑りやすいから気をつけるんですよ。」
「へーきへーき。」
するすると登り始めた悠理の後姿を見て清四郎は一つため息をつくと、彼女の後を追った。
足を置く幅、足を開く幅。
なんだか子供でも上れそうな岩場だったので悠理はなんなく踊り場のような畳一畳分ほどのスペースにたどりついた。
滝の半ば。悠理はひょいと水の流れのほうを見る。
「あれ?滝の裏に行ける?」
すると息一つ乱さずに彼女の横に立った清四郎が「ええ」と答えた。
「悠理は好きそうだと思うんですけどね。見に行ってみますか?」
「見に行ったことあんの?」
「子供の頃に、ね。」
清四郎はいたずらっぽく笑った。
子供の頃からいい子ちゃんぶっていたこの男が実は人並みの冒険心も持ちえていることを悠理は知っていたので、彼女も片方の眉をくいっと持ち上げてにやりと笑んだ。
自然にできた岩棚は細くはあったが、日本人としてはかなり大きい部類の清四郎でも何とか通れるほどには頑丈だった。
さすがにそーっとそーっと岩棚を進む。
「洞窟?」
「狭いですけどね。」
それは小さな洞だった。水流ごしの日光しか差し込まぬので奥までは見えない。
ふいに丸い光が中を照らし出した。
驚いて悠理が隣の男を見ると、その手に懐中電灯を持っていた。
「誰かが置いていってたみたいです。」
結構ここにやってくる人がいるんですよね、と解説する。
「なんかあんの?てか蛇とか出ないよね?」
きゅ、と彼女は清四郎の袖を掴んだ。
清四郎がその顔を覗き込むと、その目には怯えの色が浮かんでいた。
洞の中は滝に熱を奪われるのかひんやりと寒く、彼女の頬は少し蒼ざめて見える。
髪は滝より舞い上がる細かな水滴に湿り、その先から垂れた雫が首筋を伝う。
雫が、彼女の胸元へと、吸い込まれる。
己の袖を掴んだ手を、逆の手でしっかりと握ってやる。
「大丈夫ですよ。幽霊はいませんし。」
蛇はいてもおかしくありませんけど、ね。からかうように笑ってやる。
ここにいるといつもおかしな気分になるのだ。
暗く湿った洞。しっとりと岩壁は濡れて、雫がまるでにじみ出るように見える。
夏には外気よりも涼しいが、冬でもさほど冷たくはないのだろう。
むしろ暖かいほどで。
まるで、つれない女の胎内のよう。
冷たく男をあしらいつつも、そこはどこまでも深遠で、しっとりと濡れている。
悠理は男のいつもの声音に少し余裕ができたのか、中を見渡している。
「あれゴザだよね。なんでこんなとこに?」
と丸められて立てかけられた数々のゴザを指差す。
いくつもいくつも立てかけられたゴザ。古いものは朽ちてしまっている。
こんなところだ、当然だろう。カビが生え、すぐに朽ちる。
懐中電灯といい、なぜ?
「それはね、ここでどれだけ大声を出しても外へは聞こえないからですよ。」
と、清四郎は幼い日に覗き見た光景を思い出しながら言う。
外ではざあざあと轟音を立てて水が重力に従っている。
清四郎は悠理の肩を抱くと、「意味を教えてあげます。」と耳元へ囁いた。
滝の裏
外ではざあざあと轟音を立てて水が重力に従っている。
別に意味なんか知りたくもなかった。
悠理は瞳を閉じたままで思う。
勝手にこの男が親切の押し売りのごとく教えてきたのだ。
そうだ、勝手に。
確かにここではどれだけ大声を出しても外へは聞こえぬのだろう。
「ひぃ・・・あ・・・やあぁ・・・!」
規則的に、時に不規則に、彼女の喉から漏れる細い声。
我慢することはないのだろう。外へは聞こえぬのだろう。
だけど・・・
力が、入らないんだ。
彼女の鼻を突く、水の匂い、古びたゴザの臭い。
「水が激しくぶつかり合う場所ではマイナスイオン、科学的に言うと電子が発生します。その現象をレナード現象と言います。マイナスイオンにはリラクゼーション効果があって、滝や噴水みたいなマイナスイオンが多く発生している場所で人は癒しを感じるのです。」
清四郎が平然と解説している。
この男はどうしていつもこうなのだろう?
薀蓄など彼女は一つも望んでいないのに。
ただ、欲しいのは・・・
「そ・・・なの・・・どーでも・・・い・・・」
彼女は背後にのしかかる男へちらりと視線を送る。
彼はその瞳の中に懇願の色を見つける。
にやり、と彼女のその素直さを愛しく思って笑む。
「なんですか?どうして欲しいんですか?」
「あ・・・もっと・・・」
「もっと、なんです?」
彼の手が彼女の肩にかけられ、耳元で囁きかけられる。
「あ、そこ・・・。」
「どこのことです?」
なおもとぼける男に、悠理はとうとう身を震わせはじめた。
「いーからさっさと肩も揉んで!!」
「はいはい、お姫様。」
外ではざあざあと轟音を立てて水が重力に従っている。
洞窟の中では、滝から発生するマイナスイオンを浴びながら、合宿の疲れをマッサージで癒してもらう少女の姿がありましたとさ。
滝 その後で
人間国宝と呼ばれる雲海和尚の弟子たちの合宿、というとその厳しさは常人でも容易く想像がつく。
その拳法合宿の合宿所となっている寺では、今日の稽古を終えた弟子たちが思い思いの休憩時間を過ごしていた。
もちろん台所係や風呂係は汗だくになっていまだ立ち働いていたが。
雲海和尚は、というと茶をすすりながら西日を避けた部屋の文机で寺所蔵の古書を読んでいた。
古書と一口に言っても現代の書物と同じくジャンルは様々である。
となると和尚が好みそうな内容は知れたもの。大陸伝来の房中術の書であった。
古代中国の仙人はすべての欲を捨てているらしいのになぜか房中術も必修項目だったのだ。
ふと、和尚はいつもと違うにおいを感じて庭へと目を向けた。
ちょうどその部屋に面したところは、寺庭から裏山へと出て行く垣根の切れ目がある。
そこから彼の愛弟子と、一度は彼の婚約者となった少女が入ってきたのだ。
「なんじゃい、二人ともずぶ濡れで。」
「和尚!?」
ここでこの人にいきなり見つかるとは思ってなかったのか、愛弟子がぎくりとした表情を見せる。
二人とも動きやすい作務衣を着ているのだが、頭から尻までぐっしょりと濡れていた。
よくよく見ると、二人ともに顔が赤い。夕日を映しているわけでもなさそうだ。
普段は冷静沈着を装っているこの男には珍しいことじゃわい、と思う。
なおも和尚がじいっと二人を見ていると、少女のほうは口をへの字にしたままでくるりと身を翻して己の部屋へと向かって走り出した。
「悠理、ちゃんと体を拭くんですよ。」
男は忠告を忘れない。
「なんじゃ、清四郎。また嬢ちゃんを怒らせたか?」
「またってなんですか、またって。ちょっと拗ねてるだけですよ。」
ふうっと一つため息をつくようにして男も去ろうとする。
とたん、和尚の目が愉快そうに歪んだ。
「神聖な合宿所でなにやっとんじゃい。」
言われて和尚に向けられた男の背中がぴくり、と動いた。
「和尚も似たようなもんでしょ?」
「こりゃ仙術の書じゃよ。」
「・・・滝の裏の洞を悠理に見せてやっただけです。」
失礼、と男も足早に自分の房の方へと去っていった。
「あの滝、か。」
和尚はため息をつくと茶を一口すすった。
「色即是空、空即是色。とかく煩悩を捨てるのは難しいのう。」
(2006.8.2~8.3)
(2006.11.20サイト再録)
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