2015/02/03 (Tue) 23:14
「だあああああ、もう、疲れた。疲れたぞ!」
悠理はノートを放り出して机に突っ伏した。セーターの背中にプリントされた愛猫フクの顔が天井を向く。
背後のミニコタツでのんびりと赤本の模範解答のミスにツッコミをいれていた清四郎は、その絶叫で顔を上げた。
「そろそろ夕飯ができる頃ですよ。さすが正確な腹時計ですね。」
くすり、と笑む清四郎の顔を悠理は横目で恨めしげに見た。
「・・・そういや今日はご馳走だって言ってたな。おばちゃん。」
今日はクリスマスイブ。仲間にも家族にも内緒にしているが、悠理と清四郎が付き合うようになって初めてのクリスマスである。
とはいえ受験生でもあり、とくに悠理は志望している国際交流学科の内部入試の合格ラインまでもう少しというところであり、猛勉強の日々が続いているのだった。
そしてこの菊正宗家は他大学の医学部を受験する清四郎と、春に医師国家試験を控えた和子と、二人の受験生がいるのである。もともとクリスチャンでもなくキリスト教の行事に乗ることのあまりないこの家ではケーキすら普段は用意されない。
だが、それでもご馳走は用意するのだと昼間、清四郎の母は悠理に告げていた。気持ちいいくらいに料理をぺろりと平らげる悠理がいるのが嬉しくてしょうがないのだ。
「お歳暮でいただいたカタログギフトでね、ステーキ肉を頼んだの。カタログ3つ分一度に頼んだからたくさんあるわよ。」
毎年処理に困るほど大量にいただくお歳暮の食料を悠理に消費させようという魂胆が見えないではない。
「うふふふー。山ほどのステーキ・・・じゅる。」
机に顎を乗せた体勢で壁のほうを遠い目で見つめ、夕食を夢想する悠理はとても恋する乙女の姿ではない。
もともと悠理にとってクリスマスはご馳走が食べられる日としか認識されていないのだ。
「まあ、今年は悠理が食べてくれるのでお歳暮が年内に消費できそうでよかったですよ。」
その分、いつもはお裾分けに預かっている東村寺の面々は分け前がなくなり不服そうだったが・・・と清四郎は入り弟子たちの顔を思い出す。
そこでこんこん、とノックの音がした。
「お二人さん、夕飯だってよ。」
と、ドアを開けて和子が顔を出したので、悠理の顔があからさまに輝いた。
「わあい。」
和子も思わず顔が綻ぶ。うーん、やっぱ悠理ちゃんて見てて気持ちいいわあ。
「姉貴も珍しいですね。今日は勉強会じゃなかったんですか?」
医学部でも卒業試験が終わり、追試(というかこの先は追々試)が残っている面子以外は国家試験へのラストスパートに入っている時期である。
「ああ、クリスマスだしね。さすがに今日は飲み会かデートかにみんな行くって散会したわ。」
「姉貴はどっちにも行かないんですか?」
「るさい。今日の飲み会には気が進まない奴が参加してたのよ。」
どうやら卒業間近、春から待っているのは地獄の研修医生活ということで慌てた同級生から熱烈に言い寄られているらしい。(恐らく彼には現実逃避も入っているのだろう。)
「あいつってばほとんどストーカーだもんね。他の奴に酔いつぶして今日はもうこっちにはちょっかい出せないようにお願いしといたわよ。」
口を尖らせて和子はナイフを振り回した。
「こら、危ないじゃないの。」
母が眉をひそめた。本当にこの子は、精神的に男はいってるんだから。
「万一どっかが切れてもわしが跡形もなく縫ってやるぞ。」
もぐもぐと肉を噛み締めながら父が言う。
「なに言ってるのよ。パパたち心臓外科医はマットレス縫合か単縫合じゃない。真皮埋没縫合は耳鼻科か皮膚科でしょう?」
「乳腺外科も埋没縫合はやっとるぞ。」
マニアックに言い争いをはじめた父娘に悠理は首をかしげた。
「なんだ?マット縫合?埋没縫合?って縫い方?かがり縫いとか返し縫とか。」
訊ねられた清四郎はおや、と眉を上げる。
「悠理が家庭科の授業を聞いてたなんて初耳ですね。まあ、さすがに人の体に纏り縫いも返し縫も刺繍もしませんけどね、縫い方の名前ですよ。」
「怖いこと言わないでよ!清四郎。」
和子が聞きとがめてこちらに矛先を向けた。
清四郎は肩をすくめて平然と言った。
「最初に言ったのは悠理ですよ。」
「ははは。興味が出てきたかね?悠理君も清四郎と一緒に医学部うけるか?」
天才外科医と呼ばれる菊正宗修平氏はにっこりと悠理に迫る。
「いくらなんでも無理だい!」
と悠理は顔を赤らめながらその提案を却下した。
「マットレス縫合ってのはほとんど返し縫みたいな縫い方よ。真皮埋没縫合は溶ける糸で皮膚に隠れるように縫う縫い方。あとで図解見せてあげようか?」
和子もにっこり笑いながら肉を口に運ぶ。
「いい・・・なんか食欲失せたかも・・・」
返し縫と聞いたとたんに悠理はげっそりとした気分になった。
「あらあら。ごめんなさいね。普通は食卓でする話題じゃないわよね。これだから医者の親子はねえ。」
と母が慌てて謝る。
「医学生はケーキバイキングしながらとかミートソーススパを食べながらとか解剖の話を平然としますからね。」
清四郎が追い討ちをかける。
「こら!清四郎!もう黙りなさいな。」
母が珍しく声を荒げて叱る。
修平、和子、清四郎と三人とも肩をすくめる。母を怒らせるのは得策ではない。
「わかったよ、おばちゃん。」
悠理がぽつん、と言う。
「わかったって、何が?」
「清四郎がこんな変人に育ったのはこの家庭環境のせいなんだな。」
しみじみと真面目に言う悠理に、一家は一瞬互いに顔を見合わせ・・・笑い出した。
清四郎だけは憮然としている。
「家庭環境は否定しませんよ。」
と、似たもの同士の父と姉をじろり、と睨んだ。
「悠理、気分悪くなってませんか?」
晩餐が済んで食後のお茶まですすった後で、悠理は荷物をまとめに清四郎の部屋に戻っていた。いくらなんでもこんな日まで泊り込みで勉強を続けるほど切羽詰ってはいないのだ。
食事時に飲んだワインでほろ酔い加減で上機嫌な悠理はにっこり笑いながら振り返った。
「んーん。大丈夫。美味しかったじょ。」
ほんのり頬を赤らめたその笑顔に、清四郎もよかった、と安堵の溜息をついて微笑み返した。
「悠理。僕が医学部に入ってから今夜みたいに無神経な発言をしたらいつでも叱ってくださいね。」
彼女の顔を覗き込むようにして言う。
家ではこんな会話は日常茶飯事なのだ。特に姉が医学生になってからがひどい。
慣れっこになっている分、外でもうっかり言ってしまいそうなのだ。
「それってあたいにずっと見張ってろってこと?」
悠理はますます顔を赤らめながら首をかしげた。
「ええ。願わくば、ずっと、ね。」
と、清四郎は悠理の頬をそっと両手で包み込んだ。
「そのうちあたいも慣れちゃうかも。おばちゃんみたいに。」
鼻の頭がくっつくころに悠理がそう呟いた。
「それは困りましたね。」
しかし彼の顔はちっとも困ったような表情ではなかった。
そして二人して瞳を閉じると、唇を触れ合わせた。
「ん・・・」
悠理が抗議ともつかない甘い声を挙げた。
幾度も角度を変え、だんだんと深い口付けになってきたからだ。
清四郎はほとんど悠理の頭を掻き抱くようにぎゅっと抱きしめている。
クリスマスなんか、ご馳走を食べられる日。それだけだったはずなのに。
今年も勉強だけで終わるはずだった日なのに。
やっぱりクリスマスだからなのか?
こんなにも甘い気分になるのは、クリスマスだから?
無限に続くような熱いキスに、悠理は清四郎のセーターをぎゅっと握り締めた。
「悠理ちゃーん、お迎えが着いたわよー。」
階下から清四郎の母の声がする。
迎えの車を呼んでいたのだ。
清四郎は名残惜しさを感じながら、悠理の唇を解放した。
「迎えが、来たそうですよ。」
耳元で囁く。
悠理はその言葉の意味を認識するのに10秒ほど要し、更に声を出すまでに数十秒の時間を要した。
「・・・わかった。」
最後にもう一度見つめあって、軽く唇を触れさせた。
悠理が車に乗り込むところまで見送りにでる。
清四郎は悠理の前髪を撫でると、言った。
「メリークリスマス。悠理。」
悠理も優しく微笑むと応えた。
「メリークリスマス。清四郎。」
クリスマスだからね。こんなロマンチックな気分になるのもいいかもしれない。
(2004.11.1)
(2004.11.29公開)
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