2015/03/03 (Tue) 21:54
清四郎は一つため息をつくと、ロッカーの戸を閉めた。
今日も一日の仕事が終わった。ただそれだけ。
帰宅して、用意されている蕎麦をゆでて夕食とする、ただそれだけ。
それができるだけ、自分はありがたい身の上なのだ。
今夜も同僚の一人が誰か泊まりこむ。
どうやら夕刻に出た食事は、やっぱり蕎麦だったらしい。それで朝まで何も出ないのだから、健康な成人にはとてもではないが我慢できるものではない。
かくて今日も当直室のゴミ箱には、持ち込まれたインスタント食品のごみが放り込まれるのだ。
今年は清四郎は当直ではなかった。
だが、来年以降もいつだって自分が当番になることは十分にありえる。
一応多少の選択権はあるけれども。何しろ普段の当直料と同等の特別手当がついて、合わせて倍額が懐に転がり込むチャンスだ。
小遣い目当てで働きたがる酔狂もそれなりにいたりするのである。
何よりも、この仕事なのだから使命感というものもあるのだろうけれど。
随分減ってはいるけれど、やっぱりまだそこそこの数は残っている人々のために。
帰宅もできず、ここで過ごす人たちのために。
「菊正宗先生、今からお帰りですか?」
準夜勤のナースから声をかけられる。
「ええ、家でわびしく年越し蕎麦でも食べますよ」
清四郎は人当たりよく見える苦笑を浮かべ、肩をすくめながら答えた。
「今からでもご実家に帰らないんですか?」
「今からだと年越し詣での車で大渋滞ですよ」
それに無理して帰ったところで、彼女の笑顔は見ることができない。
彼女は「仕事」でホワイトハウスのニューイヤーパーティーに行ってしまった。
職員通用口から出ようとすると、守衛に声をかけられた。
「お疲れ様でした。よいお年を」
なので清四郎も微笑んで返す。
「お疲れ様です。よいお年を」
ドアを開けると、外は気温3度。排ガスで暖かい都心と比べると、千葉県のこのあたりは寒い。
吐く息が白く、清四郎は思わず身体をぶるりと震わせた。
虚空に溶けこむ、白い息。
こうしてここで歩いている。身を震わせながらも歩いている。
自分は幸せな種類の人間なのだ。
振り返ると暖かな光を零す、巨大な建物。
春から研修医として世話になっている総合病院。マッチングでここを選んだのは彼自身。
この建物の中で、年を越す人々。
新しき年。
いや、無理やりに家で過ごさせている人たちもいる。
あの人たちに「最後の正月」を家で過ごして欲しいから。
らしくもない。己がこんなに感傷的になるなどと。
清四郎は眉を片方だけ上げると、職員駐車場の己の車へと足を向けた。
ふと、ケータイが震えているのに気づいた。
「もしもし?悠理?」
「おーい、まだ病院にいるの?早く家に帰れよう。年越しちゃうぞ?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、彼女の声。今ここにいない彼女の声。
「今から車に乗るところですよ」
くすり、と笑う。さきほどのような苦味の勝る苦笑ではなく、どこか甘さの混じった苦笑であることを、彼自身自覚している。
現金なものだ。彼女の声を聞いただけで、今はもう、こんなに胸の奥が温かい。
「じゃあ帰ったらネット繋いでくれよな」
「はい、了解です」
今は日本時間で大晦日の夜。
悠理がいるあちらは、大晦日の朝、だ。
昔はあんなに朝が苦手だった彼女だけれど、いつのまにやら早起き癖がついている。
いい傾向だ、と清四郎は思った。
インターネット回線を利用したテレビ電話ソフト。まだベータ版だが、ここのところ毎日のように稼動している。
年賀メールなどで接続が悪くなり始めるかという懸念ははずれ、スムーズに接続できた。
「よー、清四郎、おっはよー」
繋がった瞬間に、彼女がきらきらしい笑顔とともに言った。
「こっちはもう夜の11時半ですよ」
「ちゃんと年越しには間に合ったな」
「どうでしょうねえ、0時ごろには切れるかもしれませんよ、日本中でネットが重くなりますからね」
「え?マジ?」
悠理が眉をひそめる。いつもどおりだ、いつもどおり。
「さあ?まあこいつは剣菱の専用サーバを経由してるとはいえ、上位サーバがパンクするかもしれませんしねえ」
たぶん、大丈夫だろうとは思っている。けれどくるくる変わる彼女の表情が見たくて、つい言ってしまう。
すると彼女も気づいたのか、ぷうっと頬を膨らませた。
「からかってるな?顔見えるからバレバレだぞ?」
「おや、顔が見えなくてもわかってくれるものだと思ってましたけど?」
くすくすと清四郎が笑うと、悠理は頬を染めた。
「でも・・・顔見たかったんだもん」
だからこのソフトを入れてもらったのだ。東京と千葉で離れてしまうことになった時に。
「僕もですよ」
もちろん会う努力を怠りはしない。
声を聞くだけでは、顔を見るだけでは、満足できない。
肌に触れたい、同じ空気を吸いたい、同じ光を浴びたい、抱きしめたい。そんな欲求が常に彼の中にはあるのだ。
清四郎は医者に。
悠理は剣菱の後継者に。
別々の道を選んだけれど、けれど同じ人生を歩むことを諦めたわけではないのだ。
「そろそろカウントダウンじゃない?」
「そうですね」
と、清四郎はテレビのリモコンを手に取った。除夜の鐘をついたり、ミサを行ったり、というあちこちの年の瀬の風景が映し出されていた。
「清四郎」
「なんですか?」
「次の年越しは一緒にしような」
「今だって一緒に年越ししてますよ」
それぞれの身体は離れているけれど、今はこうして心を寄り添わせているではないか。
新しい年。
自分はこうして愛しい人と迎えることができる、幸せな種類の人間なのだ。
「10・9・8・・・」
悠理が歌うように口ずさむ。その声が清四郎の耳を優しく撫でる。
「3・2・・・」
「「あけましておめでとう」」
お互いに、画面の中の愛しい人に向けて。
新しい年。
清四郎は指を唇に寄せて、そっと目を伏せる。
そうして画面の中の愛しい妻に呼びかける。
「ニューイヤーキス、です」
と、指を差し出すと、悠理も同じ仕草をして返した。
「あたいからも」
そうして浮かべたはにかんだ笑みに、清四郎は腕を伸ばしたくなる。
「そちらのカウントダウンの頃にまた電話しますね?パソコンの前にいられるんですか?」
「いや、パーティーに呼ばれてる。携帯に電話してよ」
「了解です」
くれぐれも近くにいる人にキスなんかされないように気をつけてくださいよ、というと、悠理が笑った。
「ヤキモチ屋~」
「なんとでも言ってください」
自分はなんと幸せなのだろう。たとえ彼女がここにいなくても。
抱きしめたい、彼女の香を胸いっぱいに吸い込みたい、ぬくもりを確かめたい。その欲求がいまこの瞬間に満たされることがなくても。
けれど、自分は幸せな種類の人間なのだ。
「悠理」
「なんだ?」
「なるべく早く帰ってきてくださいね」
「おう」
こんな願い事を口にすることができるほどに。
そしてそれが近い未来にかなえられるであろうほどに。
「今年もよろしくお願いしますよ。奥さん」
「あたいこそ、今年もよろしくな」
(2006.12.31)
(2006.12.31公開)
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