2015/03/04 (Wed) 22:30
ちょっとバス通りまで出て、コンビニへと寄ってきた。
もうすぐでマンションに帰り着く、という公園を通り抜けようとしたところで、大粒の雨が降ってきた。
あいにくと傘を持って出ていなかったけれど、彼女は駆け出しもせずに雨に打たれながら歩くことを選んだ。
三ヶ月前のあの日から、雨に打たれるのが好きになってしまったから。
みるみる頭から滴ってくる雫で彼女の視界は曇る。
だけど、いい。
雨が冷たいと感じるのは、生きてるからだもの。
そして頬を流れているのは、雨だれだもの。
だから彼女は気づくのが遅れた。
向こうから雨を避けて駆けてきた男と、まともに正面衝突した。
「あれ?清四郎?」
「悠理ですか?」
驚いた。やはり傘も差さずに濡れながら走ってきたのは清四郎だった。
ぶつかった拍子によろけた彼女を「すみません」と抱きとめた腕の強さもその声も、三ヶ月前と寸分変わらない、清四郎だ。
「なにしてんの?こんなところで?」
そこは彼女が大学に入ってから一人暮らしを始めたマンションに程近い場所。
二人が通う大学も清四郎の家も、こことは別の沿線だ。
「SF研究会の用で近くまで来たんです。そしたらこの雨でしょ」
屋根もない場所で立ち止まってしまったことで、彼は観念して濡れるに任せることに決めたらしい。
苦笑して肩をすくめるだけで、すぐに走り出そうとはしなかった。
「悠理こそ、傘も差さずにゆっくり歩いてましたね」
悠理の薄い色の瞳を、清四郎の分析しがたい光を宿した黒い瞳が覗き込む。
彼女の頬をぬらしているものの正体を疑ってでもいるのだろうか?
それならお門違いだ。三ヶ月前ならともかく、いま彼女の頬を濡らしているのは正しく天から降る雫。
まさか、彼女が今でも雨だれでない何かで頬を濡らしていることを期待してでもいるのだろうか?
まさか、今更、だよな。
「悠理?」
と、黙りこくったままじいっと彼を見上げ続ける彼女に清四郎が困ったように首をかしげて尋ねた。
悠理はその声にはっとして慌てて顔をそむけた。
「いや、別に今は寒くないし、気持ちいいくらいだからさ」
三ヶ月前は、寒かったけれど。
でも、雨に打たれ続けた。あの日は。
「わざと濡れてたんですか?いくらあなたがバカでも風邪を引きますよ!」
と、清四郎は怒ったように保護者のように言う。
「大丈夫だよ、前から時々こうしてるけど、一回も風邪引いてないもん」
ふふ、と彼女は軽く笑みを零した。一つ嘘だってついてみる。
そうか、ずっとこんな風に叱られたかったのかもしれない。
「でもあんまり濡らすと携帯が壊れますよ」
「え?」
と、思わず彼女はジーンズのポケットに手をやった。
「バカ!せめてポケットに入れとけ。出したらもっと濡れますよ!」
と、清四郎は慌てて彼女の手をやんわりと抑えた。
「あ、そか、そうだよね」
「ええ、そうですよ。本当にバカなんですから」
「あんましバカバカ言うな」
ちろり、と彼女は彼を見上げる。
そのとき、雨が今までより一段と強くなった。
「うわ!」「うげ!」
一瞬バケツをひっくり返したような雨の勢いに負けたように顔を俯かせ二人同時に叫ぶと、また顔を合わせてから、笑い出した。
「とにかく!お前もうちに来い!」
彼女の部屋は、すぐそこだ。それは清四郎とて重々承知しているはず。
「・・・いいんですか?」
「こんな雨だとお前の携帯もいかれるぞ!」
と、悠理が彼の腕を引っ張ると、一瞬の逡巡の後、彼も彼女とともに走り始めた。
バス通りとは逆、彼女の部屋へと向かって。
彼女が濡れて脱ぎにくくなったスニーカーをよいしょよいしょと言いながら脱いで玄関を上がっても、彼は玄関のたたきに佇んだままだった。
「おい、いいから上がれよ」
「本当にいいんですか?傘だけ貸してくれればいいんですよ?」
なおもらしくもなくうだうだと言葉を重ねる清四郎に、悠理は背中を向けたままで言い捨てた。
「バカ、ダチなんだから、遠慮すんな」
そして、彼女がリビングのドアを開けると、ほんの少し遅れてから清四郎が靴を脱ぐ気配が伝わってきた。
お互いにバカだバカだと言い合える、友達。
そう、友達なんだから、中学のときからの親友なんだから、これは当たり前のこと。
一つだけ、友達として当たり前じゃないことは───
「シャツ脱げよ。洗濯して乾かしといてやるから。着替えのシャツも、ほれ」
と、悠理は寝室のクローゼットから出してきたシャツと洗面所から持ってきたタオルを差し出した。
清四郎はその青い男物のシャツを受け取りながら、零した。
「これは・・・」
顔は無表情のままだったが、その声音にしみじみしたものを感じてしまうのは、彼女がそう期待しているからだろうか?
「乾燥機の中に忘れていってただろ?」
「捨ててなかったんですか?」
「いいから、着替えろよ」
彼女は強引に彼にシャツとタオルを押し付けると、くるりと踵を返し、己も着替えをするべく寝室のほうへ籠ろうとした。
だが、数歩も彼女はそこから離れることは出来なかった。
彼が後ろから彼女をふわりと抱きしめたから。
彼が顔を彼女の首筋に埋める。彼女はそれを振り払うこともなく、抱きしめられるままにする。
清四郎の髪からは、あの日と同じに雨の臭いがしたから。
「冷え切ってますね」
「お前もな」
「三ヶ月ぶりですね」
「そうだな」
大学でも学部が違う二人。
有閑倶楽部の部室こそ確保しているが、二人の時間が合うことはなかった。
お互いが避けていたこともあるし、仲間たちが二人を気遣って配慮していたこともあった。
「あの日も、雨でしたね」
「うん」
───すごく、冷たい雨だった。
二人はゆっくりと恋に落ちた。仲間たちは惹かれあっていく二人に気づいていたけれど、当の本人たちが気持ちを自覚するには時間がかかった。
それでも大学入学と同時に付き合い始めた二人。
悠理が世間知らずを返上したいと言って始めた一人暮らしのこの部屋は、まるで二人の部屋だった。
ただし、清四郎はこの部屋にたまに本を忘れて行ったりする程度で、決して私物を置こうとはしなかったけれど。
それがなんとなく距離を置かれているような感覚を彼女に与えた。
そしてそんな彼女の小さな不満もあいまって、今度は急速に心の距離が離れて1年後、この春に二人は別れてしまった。
直接のきっかけは、ちょっとしたスケジュールのずれだった。
それが重なり重なって、いつしか心までもが行き違っていた。
「泊まりの予定で着替えを持ってて、濡れたシャツを乾燥機に放り込んでいたんでした」
なおも彼女の首筋に顔を埋めたままで彼は言う。
「なんで、最後によりによって?って思った」
言った彼女の声は震えていた。
なんで、シャツなんて。
「こんな風に、いつか返してもらえる日が来るかもしれないと、そうしたら貴女の顔を見ることが出来るんじゃないかと、期待していたのかもしれません」
彼女が一人暮らしをやめて実家に帰ってしまっていたら。
彼女がとうにこのシャツを捨ててしまっていたら。
彼女と、こんな風に雨の中行き会うこともなかったら。
そしたら彼はどうするつもりだったんだろう?
そう思ったけれど。
だけれど、彼女はいた。
雨に打たれながら、この部屋に。
彼はそっと彼女を自分のほうへと向かせ、頬をぬぐう。
「雨だれが、ついてますよ」
すると、悠理も彼の頬を両手で包んだ。
「お前もだよ」
そして、どちらからともなく互いの頬を濡らす雫を、唇で受け止める。
───ずっと、会いたかった。
雨に打たれながら、彼女が待っていたのは、この腕だった。
(2007.7.7)(2008.10.17加筆修正)
(2007.7.8公開)
(2007.7.8公開)
「小さな賭け事」へ続く
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