2015/02/03 (Tue) 23:49
「悠理。仕度はいいですか?」
と、言いながら清四郎はバスルームから出てきた。
悠理はベッドの淵に腰掛けて朝の面白くもないテレビのチャンネルをいじっていた。
「あ、ああ。」
そう言って、やはり仕度の整った清四郎の顔を少し眩しそうに見上げる。
清四郎はその彼女の顔にらしくもない緊張の欠片を見つけると、目をすっと細めた。
「悠理。髪が少し乱れてますよ。」
というと、ふわり、と彼女の髪に触れた。手ぐしで整えてやる。
清四郎の長い器用な指が彼女の髪の間を滑る。時にやんわり頭皮に触れるその温もりに、悠理は心がほぐれていくのを感じた。
清四郎は思い出す。あの日、陽だまりの中で眠ってしまった彼女の髪に触れた、あの感触を。
たぶん、あの時には彼女に恋をしていたのだろう。
「さ。戦闘準備は完了です。」
「おう!」
悠理はにっこり笑って清四郎を見上げた。
日曜日。金曜の夜から土曜の朝まで仲間たちと飲み明かした。土曜の夜はゆっくり眠った。
野梨子は久しぶりに帰宅している父のお供で、銀座の画廊に来ていた。
馴染みの店が諸事情あって引っ越したので、その祝いを届けにきたのだった。昨今は美術関係の店の売り上げも伸び悩んでいる。高い家賃を払いきれず、少しでも安い空きテナントに引っ越す画廊も多い。廃業するよりはましだからだ。
ここ、ジュエリーAKIに近いのだわ。と野梨子は父より先に一歩外に出て思った。
見覚えのある建物が並んでいる。白いワンピースの裾を翻しながら、彼女は見慣れた街を見渡した。
ふと、そこに雑踏の隙間から聞き覚えのある四駆のエンジン音がかすかに聞こえた。
「魅録?」
向こうは野梨子が見ていることに気づいていないようだ。路肩に四駆を一時停止させ外に出て立っていた。それまで通話していたケータイをポケットにしまいこんだところのようだ。
見るからに人待ち顔。
「あら。まさか・・・」
と野梨子は口元を手で覆った。
「野梨子?どうしたんだい?」
後から出てきた父・清州が娘に尋ねた。
野梨子は父のほうを振り返ると、花が綻ぶように笑んだ。
「ちょっとだけ、魅録が誰を待ってますのか、確かめさせてくださいな。」
目をキラキラさせる娘に驚きつつ、清州氏は先ほど彼女が見ていた車道の反対側を見ると、なるほど、見知ったピンク色の頭がそこにいた。
確かに彼は誰かを待っている。
あのビルは・・・。
「可憐くんと、魅録くん、かね?」
娘から友人の噂話はよく聞かされるが、仲間内での恋愛沙汰の話はこれまで一切聞いたことがなかった。そういうもの抜きだからこそ、親友として6人仲良く付き合えるのだろうし。
だから、彼はそのことに驚いた。
「外に連れ出すのですわね。もう、いつの間にうまく行きましたのかしら?」
すねたように頬を染める野梨子の顔は、言葉とは裏腹にちっとも怒っていない。
素直に親友たちの幸福が嬉しいのだろう。
「どうだろうね?彼のあの緊張した様子からすると、今から告白するところじゃないのかね?」
自然、そう娘に返す清州氏の顔も綻んでいた。
「あ、出てきましたわ、可憐。」
恐らく「はあい」とでもいつものように魅録に言っているのだろう。可憐が片手を少し挙げた。
その顔は少し憮然としているようでもあり、ほんの少しうきうきしているようでもあり。
緊張しているのだ、と野梨子には見て取れた。
「父さまのおっしゃるとおりですわね。これから、という感じですわね。」
可憐が助手席に乗り込み、魅録も車道側に出て小走りに運転席に乗り込むと、そのまま車は走り去った。
「ふふ。ずっと皆でヤキモキしてましたのよ。魅録の気持ちには気づいてましたから。」
野梨子がキラキラした目で、並んで歩き始めた父のほうを見た。
それがあんまり眩しいものだから、清州氏は目を細めた。
「野梨子クンはお付き合いしている相手はいないのかね?」
ずっと一緒に育った隣家の末っ子長男坊とはそんな風には見えない。というか倶楽部の男連中が彼女にとって男かというとかなり疑問だ。
「私が、ですの?今は考えられませんわね。」
少し娘が眉を寄せてしまったので、父は苦笑する。
「大学生になったら清四郎君も離れることだし、たくさんお誘いがあるんじゃないかね?」
「興味ありませんわ。」
「やれやれ、我が家のお姫様はまだまだ子供でいらっしゃる。」
と、清州氏はため息を一つ零した。
もっとも、愛しい一人娘を恋人という名の男にくれてやるつもりはまだない。
門の前まで来ても、隣の彼女はさほど緊張してないようだ。ごく自然に、軽い笑みを浮かべている。
だが清四郎は気づいている。
自分と繋がれた、レースの手袋を嵌めた手がひんやりしていることに。
そして逆側の彼の手が門扉にかけられた瞬間、力が篭ったことに。
「悠理でもこんな場面では緊張しますか。」
くすり、と笑った彼を、悠理はぎっと睨みつけた。もっとも頬が赤らんでいるし、照れ隠しにしか見えない。
「当たり前だ。あたいたちには前科があるんだから。」
悠理の婿に清四郎を───
あの時の騒ぎは確かに清四郎にとっては自分の幼さを思い知らされた一件だった。
思い出したくもない、と思う一方で、あの時どちらかが恋をしていたらどうなっていたのだろう?とも思っていた。
「・・・あたいなんかで・・・ホント・・・いいのかな?」
と悠理が小さく呟く。
女らしさの欠片もなくて、むしろ女らしくすることに抵抗さえ感じていて(もちろん清四郎の腕の中では女である自分も自覚しているが、それは女らしさとは別物だと思っている)。
猛勉強でなんとか人並みの成績は取れるようになったが、そんなにずば抜けて頭がよいわけでもなく、むしろ清四郎が好きな教養分野には弱くて。
何より、剣菱などという有難くないおまけつき。それで以前の婚約騒動では菊正宗家にも迷惑をかけまくったのだから。
だが俯く悠理の頭を清四郎がくしゃくしゃと撫でた。
「そんなこと心配するなんて悠理らしくありませんよ。」
悠理の取り柄。
素直なこと。
明るいこと。
情に篤いこと。
「大丈夫です。ずっと一緒にいたんですから、こういう話がなくたって家族みたいなものでしょ?」
低い声が悠理の耳元ではっきりと言ってくれる。
そうだ。すでに家族ぐるみでずっと会っていたのだから。菊正宗家の人々は悠理をいつも温かく迎えてくれていたではないか。
「ん。そうだな。そうだよな。」
悠理は顔を上げると、にっこり清四郎に笑いかけた。そして力瘤を作るような仕草を見せると続けた。
「うしっ。頑張るぞ!」
その変わりように清四郎はくすくすと笑う。
「悠理のそういうところ、皆も好きなんだと思いますよ。」
「なんかまた、えらく健全なデートコースね。中学生みたい。」
くすくすと可憐は笑った。
「お前には新鮮なんじゃねえ?」
別に照れる様子も見せずに魅録は言う。でも何となくぶっきらぼうな物言いなのは緊張なのか、かすかな嫉妬なのか、そんなところなのだろう。
「そうね。昼間に来るのはあんたたちとくらいよね。いつもはムード満点の夜に来るわよ。こういうところには。」
そう言う彼女の脇を、歓声を挙げながら小学生くらいの男の子の一団が走り抜けて行った。
今度はあからさまにむすっと黙り込んだ魅録の横顔に可憐はまたくすくすと笑う。
「魅録らしいわよ。昼間に来るってのが。」
「そーかよ。」
と言いながらも、彼はさっきから彼女の手を握っていた手の力を、少しだけ強めた。
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