2015/02/03 (Tue) 23:55
「おお、なんだなんだ、人の在宅を確認だけしといて自分は朝帰りか、清四郎。」
居間の襖を開けると髭面の心臓外科医、菊正宗修平氏が軽く顔をしかめた。
悠理は「あ」と口を開けると斜め前の清四郎の横顔をそっと窺う。朝帰りなんて一般的には印象が悪いんだった。
「すみませんね。今日はオヤジとお袋に報告することがありますので。」
清四郎は口元にしれっとした笑みを浮かべることで、悠理の方は見ずとも彼女を安心させた。
「あら、悠理ちゃんも一緒なの?」
襖の近くの席に座っていた清四郎の母が悠理の存在に気づくと立ち上がりかけた。
「あ、いいよ、座っててよ、おばちゃん。」
と、悠理が慌てて制止する。
「なんだなんだ、二人揃って報告だなんて、意味深じゃないか。」
「そうね。それに悠理ちゃん、可愛らしい格好で。」
と、菊正宗夫妻はまじまじと二人のほうを見た。
清四郎のほうは自宅だというのにグレーグリーンのほぼスーツの上下。
悠理は彼女にしては大変おとなしいピンクのワンピーススーツ。
菊正宗夫妻はまじまじと互いに顔を見合わせてから笑い出した。
「ま、まさか、な。」
「そうですよ、ね。」
「その、“まさか”です。」
清四郎が少しく頬を赤らめて言うものだから、菊正宗夫妻はそのままの表情で凍りついた。
その人の顔を見た瞬間、野梨子の顔が光り輝いたものだから、父・清州も、笑顔を向けられた相手も、多少度肝を抜かれたというのが正直なところだった。
そりゃあ彼女は親友たちに会えば、笑顔をくれたりはする。けれど今日の笑顔はまた格別に明るい。
レストランに先客として女性と並んでいた金髪の青年は思わず青い瞳を細めた。
「デート中に失礼しますわ、美童。さっき面白いものを見ましたのよ。」
かすかに頬を上気させてうきうきとしゃべる黒髪の少女の姿に、美童と同行の女性も見とれている。
「明日には朗報が聞けると思いますわよ。」
片目をつぶって、じゃあ、失礼しますわね、と一方的にしゃべって父親と別の店へと向かっていった少女の後姿に美童も多少呆然としないではない。
なんだったんだ、いったい。
「銀座方向から来たよな、野梨子。」
てことは、可憐と魅録、か?
それにしても散々だ。
あの笑顔に不覚にもときめいてしまった。
しかし彼女は親友たちのことで喜んでいるだけだった。
しかも彼女とその父親の前で他の女性とデートしているところを見られてしまったわけで。
なのに彼女は少しも妬いてはいなかったし。
「あれ?」
と、美童は口に出してしまった。
「なに?美童?彼女、ともだち?」
「そ。学校のね。まだまだ可愛らしいお姫様さ。」
咄嗟に同行者に笑顔を向ける。こっちは野梨子に嫉妬してるみたいだし。と、フォローを忘れない。
どうやら僕は野梨子のことが気になってるらしい、と美童は気づいたのである。
まあ、多少は前途多難かもしれないが、最大の難関である清四郎は悠理に陥落したことだし、魅録はもともと可憐一筋。
彼女の初恋の相手とは似ても似つかない自分だが、必然的に二人で過ごす時間が増えそうだ。
「ま。今後に期待、だな。」
美童は同行者に聞こえないように小さく呟いた。
とりあえず菊正宗修平氏は目の前の冷えた茶をごくりと飲んだ。多少の動揺があっても瞬時にセーブできる男だ。だからこそ日本一とまで称される心臓外科医なのである。
悠理と並んで、自分の正面に正座している長男のほうをじっと見つめた。
「で?まさか結婚とか言い出すのか?」
「いえ。その許可をいただくのはもう少し時機を見てと思ってます。ですがそれを前提とした付き合いです。」
きっぱりと言い切った清四郎に、隣の悠理は耳まで赤くなる。
そんな二人の様子に菊正宗夫妻は目を見張った。
以前の婚約騒動の時には悠理の父、万作氏が唐突にやってきて大声でまくしたてただけだった。そして執事の五代が頭を下げにきた。
テレビ画面で見る悠理の顔はひたすらぶすくれていたし、二人の間に恋愛感情と呼べるようなものなど何もないのは言われずともわかった。
だがこの表情、だ。
彼女の上気した目元は潤んでいるような、困っているような、けれど艶のある熱が篭っている。
きゅっと引き締められた唇にはここにいることへの固い決意が見える。
頬に漂う緊張はほんの少しの不安を表しているのか。
対してこの家の長男坊。
年齢の割に老成してしまった可愛げのない頭でっかちの息子。なんだかんだと見栄っ張りで自分を大人に見せようとしているところがまだ子供だと思っていた。
しかし目の前で凛としている様は安定している。いつの間にか息子の目の光は優しく、かつ力強い男の目になっていた。
これも彼女を心の底から得たゆえか。
そして清四郎の母は、悠理の左手の薬指に光る指輪に気づいていた。
小さな赤い石が可愛らしく輝いている金の指輪。
それは悠理の力強い太陽のような輝きを体現しているものだった。
「今回は、自分たちの意思なのね?」
にっこりと微笑んだ母の言葉に、悠理はそちらへを顔を向けた。
「そうです。」
と答えながら、ここで初めて清四郎の頬が赤らんだ。前回の自分のひどい様を思い出したのだ。
「今度はちゃんと覚悟を決めとるんだな?」
と、じいっと自分の瞳を覗きこんでくる父を、清四郎はぐっと見つめ返した。
「当然です。」
途端に、パンっと手を打つ音が聞こえたのでさすがに一同はびくりとした。
「まああ!嬉しいわ!悠理ちゃん、こんな可愛くない息子ですけどよろしくね。」
皆を驚かせた主は、一人満面の笑顔を浮かべて悠理の手を取っていた。ぎゅっと両手で握り締める。
それで呆気に取られていた悠理もにっこり笑い返した。
「あたいこそこんなんだけど、よろしくね、おばちゃん、おじちゃん。」
遊園地の昼間の部の終わりは早い。
一度16時半に閉園する。そして18時に改めて開園してカップルのための空間へと変貌するのだ。
ジェットコースターの後に観覧車に、と思っていた二人だったが、思ったよりジェットコースターで並んだので時間がなくなってしまった。
「まだ早いし、ドライブでもすっか?」
可憐は魅録のその言葉にこっくりと静かに頷いた。
「思ったより空いててよかった。」
「そうだな。」
車が止まったのは海沿いのレストラン。土曜日ならともかく、日曜日なのでさほど混んではいなかった。
シーフード満載のイタリアンに舌鼓を打ってから二人は近くの浜辺を歩くことにした。
「さすがにここも人はいないな。」
いい波が来るからと、早朝や昼間であれば季節を問わず波乗り達が集う海。しかしこんな時間に海に入るバカはいない。
まだ春も浅い夜。桜も咲かぬこの時期に、海風は薄手の春物のニットの上にジャケットを羽織っただけの可憐には冷たかった。
と、魅録が可憐の様子に気づいて彼女の肩へと腕を回した。
「これであったかいか?」
より耳に近い場所で囁かれた男の低い声に、可憐は頬をかあっと染めた。
「うん。あったかいわ。」
いつしか立ち止まり、二人は向かい合って抱きしめあった。まるでそうあることが自然であるかのように。
しばらくは無言だったが、魅録はすうっと一つ息を吸い込んだ。
「可憐、その・・・気づいてたと思うけど、俺は・・・」
たどたどしく魅録がしゃべりだすのを可憐はおとなしく聞いている。
腕の中にいる可憐の顔をのぞく余裕などありはしない。ただ静かに聞いてくれていることが喜ばしくもあり、不安でもあった。
「大学に入ってからもお前に会いにいくから。皆にも会いに行くけど、他の誰でもない、お前と会うために行くから。」
そう言うと、彼は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。意図したというよりは、無意識に力が入ってしまったものらしかった。
苦しいほどに抱きしめられ、可憐は彼のレザージャケットの肩口に頬を寄せた。
「返事は・・・明後日で、いい?」
彼女の心の中では、様々な葛藤があった。友人としての関係を捨てることに躊躇があった。
だが、迷うのは彼のことが好きだからなのだと、気づいていた。
だから、観念することにした。
だって魅録は離れていってしまうのだから。居心地のいい有閑倶楽部から離れていってしまうのだから。
だから───
「明後日になったら、イエスというから。だから、待って。」
明日までは、二人は友人。だから。
「ああ。それくらいは待つさ。」
魅録の肩には伏せられた彼女の頬が持つ熱が伝わってきている。彼はそれだけで今夜は充分だった。
明日はさすがに菊正宗家から出かけるから、と清四郎は剣菱邸を辞すところだった。
「はは、ごめんな。やっぱ予想通りに父ちゃんと母ちゃんが大騒ぎしちゃって。」
悠理が苦笑しながら清四郎を見送りについてきた。
二人の付き合いを報告したとたんに、剣菱万作・百合子夫妻は文字通り狂喜乱舞の渦に飛び込んだ。すぐにでも婚約発表を!と鼻息を荒くする万作氏を悠理と兄・豊作の二人で押しとどめた。
「正直、僕も嬉しいよ。もちろん、清四郎君が医者になるのを邪魔するつもりはないけど、時々は助言も欲しいな。」
ちょうど廊下に出てきたところだった豊作がそう言うと、悠理は怒鳴り返した。
「やめろよ、にいちゃん!あたい、そうはしないために自分が勉強したんだからな!」
すると豊作は目を細めて笑んだ。
先ほど、清四郎を婿に取れると感涙に咽ぶ両親に悠理は毅然と言ったのだ。
「あたいは清四郎には好きな勉強をさせてやるつもりだからな!あたいがにいちゃんを手伝うんだ!」
あれほど勉強嫌いだった娘のものとも思えないセリフに、剣菱の会長夫妻は今度は違う歓喜の涙を流した。
「かあちゃん、聞いただか?」
「万作さん、聞きましたよ。」
あの悠理が奇跡の猛勉強で実力で大学の国際交流学科に合格しただけでも嬉しいのに、剣菱の事業にやる気を出したというのである。
「もちろん、悠理のその考え方は尊重するし、清四郎君を縛りつけるつもりはないよ。」
豊作は悠理の頭をぽんぽんと撫でた。
本当に妹の成長を喜んでいる様子が見て取れたので、清四郎も目を細めた。
「清四郎君、君が悠理をさらっていきたくなったら遠慮はいらないからね。僕だってそのくらいは頑張るつもりだよ。」
と、豊作は今度は清四郎のほうへと手を差し出す。
清四郎はにっこり微笑むとその手を握り返した。
「もちろんです。まあその時は悠理がいなくても大丈夫な体制を作るために僕も口を出すかもしれませんけれど。」
「あ、あいかわらず自信満々なやろうだな。」
悠理が口を尖らせたので、男二人は声を立てて笑った。
「明日は清四郎君が答辞を読むんだろ?」
「うん。あいつの聖プレジデントでの最後の晴れ舞台だな。」
いくらなんでも明日は遅刻するんじゃありませんよ、と言い残して清四郎は帰りの車に乗っていった。
珍しくも兄と二人でそれを見送ることになった悠理はいつまでもそこに並んで立っていた。
「ほら、もう中に入らないと風邪ひくぞ。悠理。」
「うん。」
大学卒業後はこの兄と一緒にビジネスをするのだ。それがどんなものなのかまだ実感は湧かないが、こうして二人並ぶこともこれからは増えるのだろう。
そう思いながら悠理は豊作の顔を見上げた。豊作は悠理が考えていることが読めないのか少し首をかしげる。
「これからもよろしくな、にいちゃん。」
そう言って笑んだ悠理の頭を、豊作は再びぽんぽんと撫でた。こちらこそよろしく、という思いを込めて。
それにしても子供を大人に変える一番の妙薬は恋だというけれど、この悠理に効果があるなんてね、と豊作は天を仰いだ。
(2005.3.4)
(2005.3.5公開)
(2005.3.5公開)
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