2015/02/07 (Sat) 21:15
さやさやと、風が竹を揺らす音がする。どこかからこん、こん、と竹を刈る音がする。
この音が、常に傍にあった。
彼女が養われていた邸の傍にも竹林があり、この音をいつも彼女は聞いていた。
そして、嵯峨野で実父が後生のお勤めに励んでいる寺の傍にも竹林があったように記憶している。
手すさびで父が描いたという絵は、竹の絵だった。
かすかな風の様、揺れてこすれる葉の音色、そしてその緑の香。
すべてが伝わってくるような絵だった。
あれは、どこにやっただろう?
持っては来れなかった。すっかり忘れていたから。
夏が来ますのね。と彼女は竹の音色を聞きながら、その上から照らす太陽を見ていた。
ここへ来てからもう数ヶ月の時が経ったのだった。
そして住まいとしている小屋へと戻ろうとして、水辺にそれを見つけた。
凛とした茎。凛と尖った葉。
それらの先に青く咲いた、花。
「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」
───着物を着るように馴れてしまった妻を思い出すと、はるばるやってきた旅の遠さを思うのです。(伊勢物語九)
三河の国の八橋で、在中将が杜若の花を見て言葉遊びで作った歌。彼は戯れに作っただけ。(「かきつはた」の五文字を埋め込んである。)
だけれど、彼がそれを歌いながら思い浮かべたのは誰だったのか?
野梨子はふ、と笑みを洩らした。
「名にし負はば いざこととはむ 都鳥 わがおもふ人は ありやなしやと・・・てな心境か?」
急に背後から声をかけられて、野梨子ははっとして振り向いた。
そこに立っているのは、彼女の夫だった。
「あら、都鳥がいましたの?珍しいですわね。」
と、彼女は微笑を返した。
───その名前の如く都の鳥というのなら、お前に尋ねてみようか?都に残してきた私が恋しく思っているあの人はどのように過ごしておいでか、と。(伊勢物語九・隅田川のほとりで都鳥をみて都を思い出して歌った歌)
「都が恋しいか?」
時折、彼女が遠くを見ていることには気づいていた。彼女に言われてここまで来た。けれど、彼女は後悔しているのではないか、と。
姫君としての生活を捨てて。なに不自由なく過ごせる生活を捨てて。
そして都に残してきた。彼女の家族たち。
流行り病で妻を亡くし一人娘を知人に預けると出家してしまった彼女の実父。勤行の妨げになるからと、出家以来彼は娘の顔を見ていない。
代わりに折りにふれて手すさびで描いた絵を娘に送り届けていた。
彼女にはその絵があったし新しい家族もいたから、さほど寂しいとは感じたことは無かった。
都を出るときに、置手紙だけは残してきた。「心配しないでください。」と。
「そうではありませんわ。ちょっと気になるだけですの。」
きっとそれは、実父のことでも養い親のことでもないのだろう。
「清四郎・・・か?」
夫の声が少しばかり強張っていることに気づかぬ野梨子ではない。
だが、それにはあえて気づかぬ振りをする。探るような視線を向けていることすらきっと魅録は自覚していない。
「それはもちろん、ですわ。だって思いつめていましたもの。」
「確かに、そうだな。」
己を待つために身を裂かれるような想いで離れていった恋人を訪う(おとなう)ことも自らに許さず、手の届かぬかぐや姫を想うように、その幸せを願い続けていた男。
不器用で、だけれど真摯で、他のことがなまじ長けているだけに笑えるほどに切ない男。
彼女にとっては兄のように育った幼馴染。彼にとっては憧れていた初恋の少女を通して知り合った親友。
「あのままでしたら、きっと出家だってしかねませんわ。」
身分違いの恋人を想って想って、世を儚んでしまうのだろう。
「あいつも考えすぎる嫌いがあるからな。」
一人っ子であるのに家を捨てた魅録。今ではその短慮で親を嘆かせた罪だけは考えぬではない。
だが、比較的思い切りのよい彼にすれば、清四郎の臆病振りにはイライラせざるを得ない。
彼が一人で考え込んでいることで待たされる悠理のことを思えばなおさら・・・。
「魅録。私が清四郎のことを気にするのと同じように、あなたも悠理のことが気になっているのでしょう?あなたなら悠理と身分違いということもありませんでしたものね。」
急にはっきり言われて、魅録は愕然とした。
魅録にとって清四郎と美童がかけがえのない友となったのと同様に、彼女にとって悠理と可憐はかけがえのない友だった。
悠理。彼がずっと惚れていた女。だけれど、彼女は清四郎を選び、彼は野梨子を選んだ。
悠理を攫うことだってできたのに、彼が安らぎを求めて攫ってきたのは野梨子だった。
いま思えば、魅録にとっての悠理は妹のような存在だった。もとは彼と同じような家の生まれの少女。その境遇に、守ってやりたいと思った。
野梨子とは一緒に手を携えて人生を築きたい、と思っているのとは裏腹に。
じいっと己を見つめる黒い瞳を見つめ返す。
「悪い。清四郎に嫉妬してたみたいだ。お前はあいつを兄のようにしか思っていないのに。」
「あら、悠理の心を射止めた方ということで清四郎に嫉妬しているのかと思いましたわ。」
悪戯っぽく笑む野梨子を思わず腕を伸ばして抱きしめる。
「お前も、悠理に嫉妬してるんだろ?」
ぎゅっと彼女の髪の間に手を入れて、その頭を己の胸に押し付ける。
彼女にとっては眩暈がするほどの強い抱擁。
野梨子はそっと瞼を伏せる。涙が一滴、零れてすぐに乾いた。
しばらくそうして抱き合っていたが、そっとどちらからともなく身を離した。
「馬鹿みたい。」
と、野梨子は鈴を転がすように笑った。魅録も苦笑をこぼす。
互いに互いの過去に嫉妬しているのだから。今は、ここにいるのに。
「俺は野梨子がいれば何もいらないよ。」
「私も魅録がいれば何もいりませんわ。」
またじっと見詰め合う。そこにあるのは暖かな空気。
「ただ、な。」
「ですわ、ね。」
想いあいながら会うこともできずにいる清四郎と悠理。
想いあい傍にいながら、他の相手と肌を重ね続ける美童と可憐。
遠い空の下で自分たちは幸福だから。だから、思い起こされる。
あれが今生の別れだったかも知れぬのに。
彼らの傍にいれば何かしてやれたかも知れぬのに、離れてしまった。
ただこの竹の音に、祈るしかない。
西へと渡る風に想いを託すしかない。
幸せに。どうか幸せに───
そろそろ冬が来る。この武蔵の国あたりは都よりはしのぎやすいと言う。だが乾くから、火には気をつけねばならぬらしい。
野梨子は笊を片手に家の戸を開ける。魅録もそろそろ竹林へと出かける頃だ。早朝の空気は日増しに肌を刺すような冷気を増していた。
彼女の足でたどり着ける範囲の木の実はそろそろなくなってしまいそうだ。だが冬への備えにもう少しあるとよいかもしれない。
ぱき、と枯れ枝を踏む音が辺りに響き渡る。静かだ。
と、普段は滅多に人が訪うこともない道に、不意に人の気配を感じた。
「え?」
と思い、野梨子は山へと向かおうとした足を止めた。
誰か、来る。
「あ!野梨子か?!」
朽葉(くちば)色の水干を着た人物が遠くで手を振った。
続けて、黒い僧服姿の背の高い男と、被布をかぶった背の高い人物と小柄な人物とが姿を現した。
野梨子は一瞬絶句すると、
「み、魅録!来てくださいな!」
と家のほうへと叫んだ。何事かと飛び出してきた夫の目が見る間に丸くなった。
「お前ら!?」
彼の目にまず飛び込んできたのは愛妻に抱きつく水干姿の少年のような少女だった。
「すいませんね。僕らも駆け落ちの仲間に入れてください。」
僧服姿の男がにやり、と笑んだ。
魅録にはただただ言葉もなく、野梨子はもちろん涙ぐみながら言うのだった。
「もちろんですわ!」
(2004.12.20)
(2004.12.23公開)
(2004.12.23公開)
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