2015/02/17 (Tue) 23:28
彼女は月を見ている。
生まれてから今まで、数え切れぬほど見つめてきた月を、今夜も見ている。
欠けて行く月を見て、何を思う?
「悠理?また月を見ていますの?」
悠理はテラスの手すりに身を預けて空を見上げていた視線を、声をかけてきた黒髪の少女のほうへと向けた。
「欠けていってるなあって・・・」
そう言って微笑む彼女の瞳の輝きはいつもより少しだけ弱い。
「悠理たちは、太陽を知りませんのね。」
「なんだ?急に。」
日の光に当たれば、たちまち塵となり消えてしまう魔物の宿命。
300年、生まれながらに魔物であった彼女たちはずっとずっと月しか見ていない。太陽の明るさも、その暖かさも、苛烈さも、優しさも、彼女たちは知らないのだ。
人間であった野梨子は、それを知っているのに。
「私ね、初めて貴女に会ったとき、貴女の瞳に太陽を見ましたのよ。」
野梨子は言葉を繋ぐ。悠理が何を見ているか、何を考えているかわからぬから、言葉を繋ぐ。
「おかしいですわよね。あれは満月の晩。貴女は月光の中に立っていたのに。」
確かに、そこは月夜の庭だった。冬の足音が聞こえてくる、秋の晩だった。
野梨子が生まれ育った、懐かしい館の庭だった。
けれどその人と目が合ったとき、そこは瞬間、夏の園へと変貌した。
「あん時も満月だったっけ?」
悠理は薄い微笑を崩さぬままに月を再び振り仰いだ。
わかってない。貴女のそんな顔は、無表情にも近いのに。
「あたいには、野梨子こそが太陽だった。」
いつしか自分が俯いていることに気づいた野梨子は、その言葉に顔を上げた。すると、悠理の分析しがたい金色の瞳がこちらを見ていた。
口元が少し皮肉に歪む。
「太陽の下に、戻りたい?でも、もう無理だよ。」
悠理がゆっくりと差し伸べた手に、野梨子は引き寄せられる。
男性とは違う、細やかな柔らかな肢体に抱き取られる。
女性としてもかなり小柄な野梨子の体は、悠理の腕にすっぽりと包まれる。
「わかってますわ。知ってますわ。」
引き帰せぬと知っていて、私はこの道を選んだのだから。
貴女が永遠の自責に囚われることを承知の上で、美童の手を取ったのだから。
「そんなつもりではありませんでしたのよ。ごめんなさい、悠理。」
きゅっと悠理のシャツを掴むと、悠理はゆっくりと彼女の頭を撫でてくれた。
彼は月を見ている。
ここは人気がない野原。森の中にぽっかりと開いた空間。
欠けていく月を見ながら、木に背を預けて眠りに落ちる。
日々細くなる月を、見ている。
半月と、彼女は言ったから。月が細り新月となり、また満ち始めるときを待っている。
「待ってても悠理は来ないよ。隊長さん。」
不意に声をかけられた。そこにいる気配には気づいていたから、黒衣の男はゆっくりとそちらへ顔を向けた。
月の光のような金の髪と金の瞳を持った長身の男がこちらを見ていた。
「でも、ここを通って街へ行くのでしょう?」
ちゃき、と音をさせて黒髪の隊長はサーベルをいつでも抜けるように構える。
「“清四郎にはもう会わない”って伝言。彼女はいま恋人と一緒にいるんだ。」
清四郎の目が見開かれる。想像していなかったわけじゃない。彼女がこの目の前の男と去った、あの時から。
だが・・・。
「あなたが、恋人なんですか?」
「違うよ。僕は彼女の元婚約者。一族が決めた、ね。」
婚約者。その言葉に清四郎は唇を噛み締める。
すると金髪の男がくすり、と笑った。
「この300年、あんたが初めてじゃないんだよ。」
「何がですか?」
「僕らの妖力に惑わされてるのを恋だと勘違いしたのがってこと。」
「僕のこの気持ちが・・・勘違いだと?」
清四郎の声が掠れた。
確かに、そうだ。血を吸われるなどという行為、妖力で快感を与えるでもしなければ、とても耐えられたものではないのだろう。常人には。
「・・・勘違いならそれでもいい。ただ、彼女に会いたいだけなんです。」
黒い瞳が、まっすぐに金色の瞳を刺し貫いた。
熱っぽい、夢見るような、若い視線。
「そうして餌にされるだけでも?」
にやり、と白皙の頬が歪む。冷笑。その言葉が似合う微笑み。
「あなたの・・・知ったことじゃない。」
清四郎の薄い唇が歪む。こちらは、凄惨を絵に描いたような微笑み。
「そうだね・・・僕の知ったことじゃない。僕に関係あるのは今夜の餌と、そして彼女たちを守ること。」
ぎっと金色の瞳が冷たさを増す。
清四郎の首筋に冷たいものが走る。サーベルを握る手に力が篭った。
兵舎の窓から彼は月を見上げていた。
あの晩よりも一層細くなった月を。
先日、兵舎での待機当直になっていた隊長と二人で食堂の窓辺に腰掛けていたときだ。隊長は切なげな瞳で空を見上げていた。
「お前が月を見てるなんて珍しいな、清四郎。」
思わず声をかけてしまった。そんな目をしている清四郎など初めて見たから。
「月が欠けていくなあ、と思いましてね。」
「あ?そうだな。」
思わず魅録は半ばまで欠けた月をまじまじと見つめた。
そのまま二人は無言でカップを手に座っていた。
もとより口数が多い二人ではない。
幼い頃より二人で一緒にいてもそれぞれが違うことをしていることが多かった。
だがそれでもいざという時に一番呼吸が合うのもこの二人なればこそだった。
「清四郎。一つ聞きたいことがある。」
「なんですか?」
やっと、清四郎が彼の方を見た。
「お前、ここ何日か夜になるといないよな?どこに行ってるんだ?」
夜番や待機当直でもなければ比較的自由に過ごせるのがこの警備隊のいいところであるが、それでもいつでも連絡が取れる状態になっていなければならないのは当然で、ましてや隊長ならなおさらである。
これまで仕事一途に働いてきた、決して貴族の息子の不真面目な隊長勤めではない清四郎がそのような態度を取ることが魅録には信じられぬ想いだった。
「プライベートですよ。魅録。」
穏やかな表情で静かにそれを告げられた。それに魅録はかっとした。
「俺にも話せないことか?」
幼馴染で親友で、今は仕事も同じくする二人。そう思っていたのは自分だけなのか?
「あなただから、言えません。心配しないでください。睡眠はちゃんととってますから。」
「清四郎・・・。」
彼の幼馴染はそれ以上なにも言わなかった。
そして今夜も彼はいない。
「何を・・・してるんだ。お前。」
何かしらに悩んでいる様子だった清四郎。己が力になれぬことが、それを明かしてもらえぬことが何よりも歯がゆかった。
「血の・・・匂いがする。」
不意に悠理が言うので、野梨子はその顔を見上げた。
二人はテラスで柵に背を預けて床に座っていた。悠理が野梨子の肩をしっかり抱いているので、寒くはない。
「私も、感じますわ。」
「美童がさっき出かけていってたよな。」
あの野原で彼女を待ち続ける男を追い返すために、あいつは行ったはずだ。
だがあの初めて彼をあそこまでつれてきた夜、清四郎に彼女の呪縛は通じなかった。
美童は大丈夫だろうか?
「ちょっと、気になるから行ってくる。美童の血の匂いはしないけど、念のため、な。」
「気をつけてくださいましね、悠理。」
立ち上がり部屋へと入っていく悠理を見送る野梨子に、悠理はちょっと振り返ると微笑んで手を振って見せた。
───あの男の血の匂いも混ざってはない。
最後の男がどう、と倒れた。
「やっぱり警備隊長さん、お強いね。」
振り返ると金髪の男がにやりと笑んでいた。ほとんど息を乱していない。が、彼は剣の一本も使わずに賊の半分をしとめていた。魔力によるものだろう。
清四郎はほんの少しだけ弾む息を整えサーベルを鞘に収めると、汗をゆっくりと拭った。その優雅な仕草はやはり5人からの賊を殺さずに気絶させた腕前の持ち主のものとはとうてい思えない。
「あなたこそ、魔力ですか?一石二鳥だったようで。」
「そうだね。僕らの隠れ家にまで来られちゃかなわないし。本当は男の血を吸うのは好きじゃないけどね。」
「なぜ?悠理は濃い血のほうが美味いと言ってましたが?」
その言葉に美童はちらりと目を動かして反応する。しかし何もなかったように肩をすくめておどけて見せた。
「そりゃ確かに若い男の濃い血の方が滋養にはなるさ。でもね、僕は男の首筋に顔を寄せるような趣味はないし、女性の薄くて繊細な血の味の方が好きなんだよ。処女ならスレてなくてなおよし。」
ずらずらずらっとまくしたてる。
思わず清四郎はぷっと吹き出した。あのステーキを大口でほおばる悠理と目の前の彼とが言い合っている様が目に浮かんだのだ。
「そういえば悠理はステーキを食べてましたけど、血液以外のものも滋養になるんですか?」
「ああ、レアステーキは血の成分を含んでるから。でもどれだけ食べてもそんなには栄養にならないよ。」
「ほほー。なるほど。」
悠理のときも思ったがどうも彼らは魔物というにはかなり率直だ。清四郎の探究心にあっさり応えてくれる。
不意に、美童が振り返った。だが、清四郎には人の気配も、夜行性の動物の気配すらも感じられなかった。
「なにか?」
「いや、ここは押さえとくからさ、さっさと警備隊のお仲間を呼びに行ったら?僕らもこんなんを野放しにしてたら厄介だし。」
夜盗の一団。今夜王都の近郊の村を襲おうと画策してこの野原に集結しようとしていたのだった。
「ええ。後は頼みます。・・・そういえばあなたの名前を聞いてなかったな。」
「美童だよ。」
「では、美童。そのうち縁があればお会いしましょう。」
「なに仲良くしてんだよ。」
猫よりもなお軽い足音と共に現れたのは茶色の髪の少女。忌々しげな顔をしている。
「別に。必要だから手を組んだだけだよ。都で会ったら捕まえるぞって意味だったんだろ。」
にやりと月の光を浴びて笑んだ男を尻目に、悠理は一本の小道をじっと見つめていた。
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