2015/02/19 (Thu) 00:39
───何が悪かったのだろう?
───確かに、あの時は幸せな二人だったのに。
彼女は首のスカーフの柔らかな布地をぎゅっと握り締めた。
本来は平日の放課後。
私服で校内を歩く彼女が物珍しいのか、いつも以上に一般生徒の目を集めていたのが気になった。
そういえば前にもあった。私服でここまでやってきたことが。
あの時は他の生徒の目などまるで気にならなかった。ただ一心不乱に自分の用事を済ますことしか考えていなかった。
けれど今日は、今日ばかりは───と彼女は少し俯いてスカーフの端を抑えるように手を当てた。
立ち止まってはいられない。
このスカーフの下に隠されたものを、悟られてはならない。
これから向かう生徒会室の皆の他には。
いつも傍にあった黒い瞳に気づいたのは、その言葉が男の唇に載せられたその時だった。
「悠理。僕は貴女が好きみたいです。」
その声は彼女の耳の間近で、息もかかろうほどの距離で発せられた。
そう。ちょうどこのドアの向こう側で。
他の4人のメンバーはとうに帰宅してしまった後の生徒会室から出ようとした彼女は後ろからぬくもりに包み込まれたのだった。
「好き・・・みたい?」
首をかしげながら顔だけ振り返ると、思ったよりも近くにある黒い瞳がわずかに見開かれた。
「あ、いや、その・・・。」
とやっぱりこの男にしては珍しく言いよどみ、いったん彼女の髪の中に顔をうずめた。
そして数瞬ののちに朱に染まった顔を見せると、すうっと息を吸い込んだ。
「好きだ。」
囁かれた低い声はかすかにかすれていて、背中のほうから男の緊張が伝わってきて。
その言葉はすとん、と彼女の腹に落ち着いた。
「そっか。」
するりとそんな言葉が口から滑り出してから、彼女は言われたことの意味に気づいた。
清四郎が、あたいを、好き?
黒い瞳が、彼女を見つめている。じいっと彼女の色の薄い瞳を。
目を逸らしても、その視線は頬に、髪に、背中に。
思えば、いつだってこの視線を感じていたような気がする。
顔が燃えるように熱をはらんだ。
「悠理。」
もう一度名前を呼ばれて、心臓が飛び跳ねた。
ただ、己を後ろから抱きしめる腕をそっと握ることしかできなかった。
かちゃり、といつものように軽い音をさせてドアを開ける。
中で繰り広げられているだろう日常が、ほんの少しだけ止まる気配がした。
「あら、悠理?どうしたの?私服で。」
最初に彼女に声をかけたのは、長いウェーブヘアを今日は背中で一本の三つ編みにした可憐だった。
野梨子と一緒にテーブルでタウン情報誌を覗いているようで、驚いたようにこちらを見ている。ちらりとこちらを向いた野梨子は何か言いたげな目で眉をしかめている。
悠理は黒髪の小柄な少女にまず軽く微笑みかけた。張り付いたような笑顔ではないかだけ、気にしながら。
「やっぱサボりだったのか?出席日数大丈夫か?」
壁際のスピーカーの傍で配線をいじっていた、悠理のクラスメイトの魅録が呆れたように言う。
金髪を窓から差し込む光できらきらと光らせながら恐らくは今日のデート相手へ携帯メールを打っていた美童もかすかに笑んで、空いているほうの手を上げて彼女を出迎えた。
そして、黒髪の生徒会長はドアに背を向けた状態でいつもの席で新聞を読んでいたのだが、可憐の声を受けて振り返った。
「今日は出てきたんですね。」
口元はうっすらと微笑んでいるのだが、目が、笑っていなかった。
まるで猛禽類が獲物を狙うかのような静かな目が些細なことも逃すまいという風に彼女を見つめていた。
眉根に皺を寄せたままで。
悠理はすうっと表情を消して、後ろ手にドアを閉めた。
清四郎が眉根に皺を寄せるのは癖であるらしい。
昔から彼が考え込むときや、悠理を叱るときには、いつだってこんな皺がよっていた。
若いうちからそこに痕がつくんじゃないかと懸念した彼の家族はやめるようにいつも言っている。
あの日以来、清四郎がこのように眉根に皺を寄せることが増えたと思う。清四郎に「好きだ。」と言われたあの日から。
「筋肉痛にならねえか?」
とからかうように彼女が言ったのは、付き合い始めてどれくらい経った頃だろう?
「そうですね。このところの頭痛も筋肉痛なんですかねえ?」
と彼は眉根を揉みしだきながら弱弱しく笑んだ。
あの時の彼はなんだか可愛くて、そんな顔を自分だけに見せてくれるのが嬉しくて、悠理は彼を優しく抱きしめた。
「ああ、こうしてると楽になりますよ。」
彼女の胸に顔をうずめて彼はそう言ったものだ。
だが今の彼は、あの日の彼とはまるで違う。その目に揺らめいている炎は、彼女の薄いけれど彼のものとは違って柔らかな胸に顔をうずめてもけして静まることはないのだろう。
一昨夜のように。
「私服、ですか。」
「そりゃあ、な。制服で出てきて皆に見られたら困るのはお前だろ?」
悠理はスカーフを手で押さえるような仕草をし、座っている清四郎を見下ろすように見据えた。
「まだ2日だからな。」
と、付け加えて。
「そうですね。2日ではさすがに、ね。」
しかし涼やかに笑みさえ浮かべてそのように言う清四郎の姿に、悠理は体がたぎるのを感じた。
だが、悠理がわめきだすより早く、野梨子が立ち上がった。
「清四郎!」
少女はただテーブルに手を突いてそれ以上は何も言わなかった。
けれど、毅然と幼馴染を睨みつける瞳は誰よりも凄烈で、やや紅潮した白い肌もいつだって艶やかな黒い髪も全部が真っ直ぐに彼を責めた。
隣に座る可憐などは話が見えず、呆然と野梨子を見上げている。魅録は話が見えないながらも先ほどから流れる異様な空気にじっと皆を観察している。
そして美童も電話を閉じると、静かに悠理と清四郎のほうを見つめた。
「あなたが何をどこまで知ってるかは知りませんが、今は悠理と僕の問題ですよ。」
「だな。」
清四郎が野梨子に低い声で言うのに、少しだけ平静を取り戻した悠理は同意した。
「でも、悠理。」
と、言い募ろうとする野梨子を悠理は掌を向けることで軽く制した。
「大丈夫。ありがと、野梨子。」
そして悠理は美童のほうにも目線を向けた。
心配かけて悪いな。とでも言うように。
美童も悠理に微笑み返した。
無理はしないでいいよ。とでも言うように。
その悠理の表情の一部始終を清四郎はじいっと見ていた。
悠理は清四郎のその視線にも動じることなく、また清四郎へを視線を戻すと、にいっと片方の口の端を上げた。
それは仲間たちの誰もが一度も見たことのない、悠理の冷笑だった。
いつもの朗らかな太陽のような笑みでもなく、悪戯をたくらんだときの含み笑いでもなく、格闘を挑むときの楽しげな笑みでもなく。
悠理がこんな表情ができるなどと誰が思うものか。
「清四郎。今日はお前に言うことがあって出てきたんだよ。」
「家でおとなしくしていれば会いに行くつもりだったのに。」
恋人らしいセリフを言いながらも清四郎の目は甘い恋人のそれではなかった。
「今は二人きりにはなりたくないからな。」
対する悠理のそれも全く甘みのない、尖ったものだ。
「おや、怖いんですか?」
清四郎のお決まりのセリフ。悠理の負けん気を刺激して彼女を意のままに操るための呪文。
だけど悠理は今日ばかりはそのセリフに乗ることはできなかった。
「あたいたちが本気で闘ったら部屋が大破しちまう。ここならお前が暴れることもないだろ?」
ここなら。
仲間たちの前なら。
ドアの外に清四郎の外面しか拝めない生徒たちや教師たちがいるここなら。
「あなたじゃなく、僕が暴れるんですか?」
「否定できないだろが。」
ごくり。恐らく可憐あたりが唾を飲み込む音が響く。
清四郎と悠理がしゃべる他には誰も一言も発しない室内は水を打ったように静かだったから。
窓の外で、ドアの外で繰り広げられているだろう放課後の風景がまるで薄衣かラップででも隔てたかのように感じる。
八つの瞳が、清四郎と悠理を見つめている。
清四郎は気づいているのか?
ポケットの中で握りしめられた悠理の手がかすかに震えていること。
たぶんその掌にはびっしょりと汗をかいているだろうこと。
彼女がからからに乾いている喉から、決定的な一言を搾り出そうとどれだけ努力しているか。
普段の清四郎なら決して見逃すはずのないそれらを、今の清四郎はちゃんと見抜いているのだろうか?
そして悠理は口を開く。
「別れよう。清四郎。このままじゃお前がダメになる。」
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