2015/03/23 (Mon) 00:27
空が高かった。
抜けるほどに青かった。
儚い青だった。
夏が往こうとしていた。
赤いプラスチックの花びらが揺れる。
風にくるり、くるり、と風車が回っている。
人々のざわめきと、祭囃子の笛の音が、遠く、近くに聞こえる。
通された桟敷は2階にあった。
通りを見下ろすと、赤い布がかけられた山車がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
「今年は間に合ったようですね。」
黒い瞳が柔らかく笑む。
「去年は悪かったな。」
猫のように薄い色の瞳がふいっと窓の外にそらされる。
去年。初めて二人だけで旅行に来た。
彼の家の別荘に招待されてやってきてみればかなり町が騒がしい。
「ああ、ここらの祭りですよ。県のニュースにも紹介されないくらい小さな祭りですけど、山車なんかも出ますから。」
と別荘番の女性が笑った。
「わ~い、屋台もたくさん出るよね。」
彼女は屋台の体に悪そうな食べ物が大好きだった。
可愛い駄菓子もかなり魅力的だ。
「それなら浴衣を持って来ればよかったですね。」
「やだよ、歩きにくい。」
彼女が赤い花模様の浴衣を着て歩っている姿を想像して楽しんでいた彼は、その即答に苦笑した。
「僕は悠理の浴衣姿が見たかったんですけどね。」
「もう散々見ただろ?」
赤くなって頬を膨らませる。
仲間と花火大会を見に行った。
彼女も女友達や母親に無理やり浴衣を着付けられた。
慣れない和服姿で人ごみの中、仲間たちとはぐれた彼女を見つけ出したのは彼だった。
そのまま二人だけで手を繋いで花火を見た。
そうして二人の秘密の恋は始まった。
夏の終わりに、こうして二人で旅行に来るまでになっていた。
桟敷で山車見物をさせてもらえると言うのではしゃいで出かけた。
「悠理。早くしないと山車が行ってしまいますよ。」
「ちょっと待って、清四郎。あのイカ焼きも美味しそうだぞ。」
半ば引きずられるようにして桟敷に上った。
階段の途中で一層祭囃子が大きく、歓声も上がるのが聞こえた。
二人で顔を見合わせて階段を駆け上がる。
窓の外を赤い影がよぎった瞬間だった。
ひらり、と金色の幡が青空にひらめいた。
子供の頃に、どうしても掴まえられなくて逃げられてしまった、蝶に似ていた。
ふっと視界からそれが消えた。
笛の音が低くなった。
我に返り窓に駆け寄ると、去って行く山車の後姿が見えた。
あの時、しっかりと彼女の手を握り締めた彼の手は、今年も彼女の手を握り締めている。
大きな手だった。
泣けるほどに温かかった。
「ああ、正面はあんなだったんだ。」
山車の上に稚児姿の子供がちょこんと座っている。
白い水干に赤い飾り紐。赤い袴で金色の扇を構えている。
赤く引かれた口紅。きりりと紅で縁取られた瞼。黒い瞳に白粉をはたかれた肌。
5歳くらいだろうか。
笛の音と、鉦の音が、部屋を満たす。
近づいてくる。
神の使者が近づいてくる。
そして瞬きの間の、無音。
稚児のきりりとした横顔。
山車の赤。
幡の金。
艶やかに、窓の外を横切って往った。
「やっぱり今年も泣くんですか?」
呆れたような口調に優しさがにじんでいる。
言葉ほどには呆れていないのだ。
「だって、涙が勝手に出る。」
白い浴衣の袖でそっと涙をぬぐおうとしたら、その手を取られた。
そっと温かく柔らかいものが目じりをぬぐった。
彼がそっと唇で掬ってくれたのだとわかった。
「せっかく浴衣を着てくれたんですからね。汚しちゃいけませんよ。」
白地に朝顔が咲く浴衣を、清四郎はひそかに用意してくれていたらしい。
別荘についてから見せられた。
今年はそれを拒まなかった。
去年、涙を流す悠理の唇を奪った。
初めてのキスは、涙の味がした。
あのまま、あの山車に彼が連れて行かれてしまうのではないかと錯覚した。
あのまま、あの山車に彼女が連れて行かれてしまうのではないかと錯覚した。
だから、貪るように抱き合った。
また、二人で祭りを見ようと、誓った。
そうして去年の夏は往った。
「なんであの祭り、あんなに怖いんだろう?」
彼の裸の腕に頭をゆだねてとろとろしながら彼女が呟いた。
「もう見たくありませんか?」
彼女の髪に唇を埋めるようにして彼は問うた。
彼女に枕をしてその頭を抱く腕にも、細い腰に回した腕にも力が篭る。
彼も怖いのだ。とわかる。
「ううん。来るよ。来年も。」
そっと瞼を伏せると、長い睫毛が濃い影を落とした。
「一緒に、来るんだろ?」
と彼の胸にぎゅっと額を押し付けた。
「ええ。悠理と一緒でなければ、二度と来ません。」
「あたいも、お前と一緒じゃなきゃ嫌だ。」
夏が終わる。
男は、ふっと読んでいた本を閉じると、傍らの杖に手を伸ばした。
体の節々が痛む。
若い頃は体力自慢だったのにな、と笑みがこぼれた。
去年まではこの別荘には妻と来ていた。
ある年から、子供たちをつれ、またある年からは孫たちを連れ。
一番下の孫が高校生になった3年前からはまた独身時代のように妻と二人だけで来ていた。
今年は一人だった。
2階の桟敷に上るくらいは何ともない。今はロマンスグレーになってしまった髪を乱すこともない。
若い頃の超人的な動きに比べたら衰えたと言えども、まだその余韻は残っている。
きしり、と古くなった階段がきしんだ。
この階段も僕と同じですか、と嘲った。
祭囃子が近づく。
見物客の歓声が聞こえる。
あの日と同じ、赤い山車が通り過ぎる。
男はじっとそれを見つめた。
そしてそっと瞳を閉じた。
静かだった。
祭囃子も。人々の声も。
一切が遠ざかる。
瞼の裏では、二度とは覚めない眠りについた妻の姿が思い浮かぶ。
彼女も、彼女に寄り添う自分も、あの初めて二人で祭りを見た日に戻っていた。
赤い山車に、彼女は乗っていってしまった。
朝顔模様の浴衣を着て、逝ってしまった。
眠る彼女に着せた白い浴衣。
最期の口付けはひどく冷たいようで、ひどく静かだった。
赤いプラスチックの花びらが揺れる。
風車がくるり、くるり、と回っている。
もう、彼の元には祭囃子は二度と来ない。
今年が、最後です。
気のおけない仲間たちと、今になってまたつるんでいる。
だが彼女がそこにいなかった。
一人、また一人と逝く中で、彼女は彼の傍で微笑んでいた。
その彼女が、今年はもういない。
同じように赤い花が揺れても。
風車が風に吹かれても。
もう、祭囃子は二度と来ない。
男は別荘に戻ると、暗いテラスのデッキチェアーで、静かに目を閉じた。
(2004.8.12)
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