2015/03/23 (Mon) 00:35
ひやり、とした空気が頬を撫でたので、彼女は瞼を開いた。
しかし広がるばかりの闇に一瞬ここがどこだか思い出せなかった。
ああ、ここは東京ではないのだ。
闇に慣れた瞳でも、ぼんやりと障子の外が月の光で明るいのと隣に敷かれた布団の影とがのっそりと見えるのみだった。
とたん、彼女の頬が熱くなった。一人でここに来たのでは、ない。
そして己を覚醒させた風の中に嗅ぎなれた匂いが漂っていることに気づいた。
頭を少しだけ上げると、さらさらの黒髪が枕を撫でる音がした。
「魅録?」
小さく呟くが、返される声はない。
障子のほうを見やると大きな影が映っていて、彼の居場所を告げていた。
そっと温泉宿の名前だけが入れられたそっけない白い浴衣を羽織り、きゅ、と手早く帯を結ぶ。
すうっと軽い音だけをさせて障子を開けると、冷たい空気とともに紫煙が流れ込んできた。
「野梨子?わりぃ、起こしちまったか?」
と言うや、彼は慌てた様子で手にしていた煙草を灰皿に押し付けた。
焦った彼の顔は年齢以上に幼くて、ゆるく着崩した浴衣の胸元から立ち上る強烈な男くささとのギャップを感じさせる。
「まあ、構いませんのに。」
野梨子は苦笑した。
魅録と付き合い始めてからすでに半年。これは幾度となく繰り返された光景だった。
ニコチン中毒の彼が煙草を吸う。彼女が近づく。すると、彼は煙草を消す。
もちろん彼女とて煙草の健康への害悪は重々承知しており、できるものなら彼には本数を減らすなりしてほしい。だが初めて会ったあの日からこの匂いはすでに彼の匂いだった。
ちょっと苦くてスパイシー、けれど彼女をひどく安心させる匂い。
画家である彼女の父は同業者の中でも珍しく非喫煙者であるが、隣家の主は患者に健康を説く医者でありながら大抵の同業者と同様に自らはヘビースモーカーである。だから煙草の匂いは子供の頃から馴染みではあった。
とはいえ、清潔を旨とする医者はたとえヘビースモーカーでもあまりヤニくさくはない。そして当然、目の前のピンク色の頭をしたロック好きの青年とは銘柄の嗜好も違う。
そう、魅録の匂いは彼女にとっては新鮮なものではあったのだ。
彼女自身の髪に、衣類に、すべてに融け込んでいる甘い香の香りとはあまりにも遠い。
だから、彼女は言った。
「ねえ、魅録。私も吸ってみたいですわ。」
彼は「ダメだ。」と即答した。彼女がおとなしく潔癖に見えても、誰よりも大胆で好奇心も旺盛な性格であることを彼は骨身にしみて知っているのだから、彼女がそのように言い出すのは彼の予想の範疇だったのだろう。
「お前さんにこんなもん吸わせるわけないだろが。」
彼女にこの臭いを染みこませたくはない。彼女にはいつまでも穢れない甘い香りを漂わせていてほしい。
たとえそれが彼のエゴだとしても。
「魅録、“あいおもいぐさ”という言い方を知りませんの?」
「“あいおもいぐさ”?」
「煙草の異称ですわ。」
彼女はくすり、と笑った。
江戸の遊女の間で呼ばれた言い回し。
女が自らの口で吸って煙草に火をつけ、本命の男がすぐに吸えるようにして差し出したことからそう呼んだ。
だから、相思草。
「女が好きそうな話だな。」
魅録は眉根を下げながらくっくっと笑う。そして換気のために透かしていた窓を静かに閉めた。
「とてもロマンチックな話でしょう?」
と、彼女は彼の傍らに座りながら言った。
彼の腕が彼女の肩に回される。
「でも、ダメ。お前には吸わせない。」
「どうしてもですの?」
彼女の肩に回した腕の親指で彼女の頬を撫でる。
「身体に悪いだろが。」
「そのセリフ、そっくり貴方にお返ししますわ。」
と、彼女は少し頬を膨らませた。
彼はそこに指先をつん、と埋めた。
「そうだな。ハタチになったら記念にやめるかな。」
「それでは遅いですわ。」
彼女が生真面目な顔で睨むものだから、彼はくすり、と笑った。
「まあまあ、じゃあ火はつけないで銜えるだけ、な。」
と、彼は空いたほうの手で彼女の口に新しい煙草を一本、押し付けた。
彼女の赤い唇がそれをそろり、と銜える。すうっと吸い込む。
すると彼はそれを己の唇へと引き取り、口をつけた。
瞬間、彼女の胸がどくり、と音を立てた。
彼女を見つめる彼の瞳が、熱い。
肩に回された彼の腕が熱い。
彼女の体の右側に感じられる彼の身体が、熱い。
彼は銜えた煙草に火もつけずに灰皿へ置くと、彼女と唇を重ねた。
じりじりと胸を焦がす恋の火は、煙草の火に似ている。
その熱さも、苦さも、中毒性も。
そのまま彼は軽々と小柄な彼女を抱き上げ、寝床へと戻る。
熱に浮かされ誘われるまま、彼女の肌に彼を刻む。
彼女は翻弄されているようでいて、だが彼を翻弄の渦へと誘い込む。
迎えた朝。二人は互いの匂いが混ざり合い、一つの香りを奏でていることを知った。
(2006.3.17)
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