2015/03/23 (Mon) 01:16
───なんで自分はここにいるのだろう?
目覚めて最初に彼女を襲ったのは、喩えようもない違和感だった。
目の前に自分を包み込む裸の胸。それは結婚して1年になる夫のもの。
だが、今の今まで自分がいた場所とは違う気がした。
さらりと亜麻色の猫毛を揺らしながら起き上がってみる。
まだ窓の外は薄暗い。
男性もののパジャマだけではひんやりとした空気が肌を刺す。
そこは自分が生まれ育った豪邸とは似ても似つかない、だけれど世間一般には“高級”と呼ばれるマンションの一室。
最初に目に入ったのは、ベッドの足元のほうに置いてあるAV機器。
夫の趣味でかなりマニアックな品揃えがしてある。
もちろん10年や20年も前までのように大袈裟に大きければよいというものではない。
デジタルが普及し、音質も改善された。
いかなメカマニアの夫でも改造の余地はほとんどないほどに完成されたコンパクトな品。
だけど全部デジタルってのもちょっと寂しいよな。
そう苦笑して一つだけ購入してあるのが一台だけ調和を乱している、アナログのレコードプレーヤーだった。
アナログで聞きたい曲もあるんだって言ってた。
でも自分はそんな曲は知らなくて、その気持ちは理解できると頷いた友人のほうがやっぱりこいつのことを支えてやれる奴だと思って・・・
・・・あの二人が結婚したのは正解だったって胸を撫で下ろしたんだ。
「悠理?起きたのか?何時だ?」
不意に夫に声をかけられて悠理はびくりとした。
そしてぷるぷると頭を振ると、まだ寝転がっている夫のピンクの髪に触れた。
「まだ5時。トイレ行くだけだからまだ寝てろ。」
「あー。」
むにゃむにゃと寝返りすら打たずに、それだけ彼は答えた。
そして彼は腕の中から離れてしまった愛妻の代わりに仰向けのまま枕を抱え込むと、その枕の下で再度寝息を立て始めた。
相変わらずひどい寝相なんだからな、と悠理は笑んだ。
枕の下で苦しくないのか?
もっとも寝相の悪さにかけては自分も人のことを言えた義理じゃない。
今まで何度、隣に眠る男をベッドから蹴り落としたことか。
普通に考えて体重差があるんだからやすやすと相手を動かすことなどできないはずなのだが、それでこそ悠理らしい、と男は苦笑いするばかりなのだ。
あ、でも魅録は怒る、か。
ふと頭に浮かんだ考えに悠理はまたも愕然とした。
さっきからなんなんだろう。
そんなことはありえるはずがないのに。
他の男と寝たことなどないはずなのに。
高校生の頃までの仔犬同士のような付き合いを乗り越えて、大学時代に魅録と付き合い始めた。
そして大学卒業を待って結婚したのだ。
確かに付き合い始めるまで多少の紆余曲折はあった。
だが、結局悠理は魅録を選んだ。彼女をずっと見守っていてくれた魅録を。
台所に立つ。
別にこんな時間から朝食を作ろうというのではない。
そう。友人連中皆が驚いたことに、悠理は魅録と付き合い始めてから家事を覚えた。いつまでも彼に甘えていたくなかったから。
彼を支えられる人間になりたかったから。
だから、そうして彼女は家事をしていたのだから。
この台所は彼女の城であるはずなのだから。
ほとんど音をさせずに引き出しを開ける。
軽くて音がしない、剣菱ハウスデザイン株式会社の製品。
このシステムキッチンは、家事を覚えた悠理と、その友人たちとでモニターをしてデザインしてもらったのだった。
だから友人たちの部屋の台所も配色などの違いこそあれ、ここと大差はない。
とはいえ、どこに何をしまって置くかまでは一致しない。
いくら仲がよい彼女たちとは言ってもそればかりは各自の使いやすさが優先されている。
悠理が祈る気持ちで開けたそこでは、漆塗りの夫婦箸が黒と朱色の光沢を放っていた。
これは結婚祝いに野梨子と、その実家である白鹿家から贈られたものだった。
ほっと、吐息が悠理の口から洩れた。
そうだよ、な。
バカバカしい考えだと思う。
なんで本当はここにいるべきが自分ではない誰かだと思ってしまったのか。
魅録と結婚してすでに1年。
いまや魅録は母の実家である和貴泉のグループ会社であるネットでの旅行予約システムを引き継いで、さまざまな事業へも手を伸ばし始めていた。
機械いじりが好きで好きでたまらなかった少年のような魅録がいつ変わったのか、悠理ははっきりと覚えている。
悠理にとっては思い出すことにまだ痛みを伴わずにいられない、あの日。
でもやっぱりシステム開発とかの事業をさかんにやってるんだから、実業家の道を選んでも魅録は魅録でしかありえないのだ。
そして友人を大事にして、義に篤い。
そういうところを捨てきれない彼は実業家としては危うさを孕んでいると友人連中が心配してしまうほどだった。
だがそんな心配は要らない。
それでこそ悠理が愛した彼なのだし。
それでこそ彼を信頼して事業提携しようという者も多いのだし。
表向きは完璧に人付き合いをこなして、実業家として大々的な成功を収めている、時に冷酷なあの男とは、違う。
あいつにくらべたらささやかな業績ではあるけれど、だけど魅録の人脈は堅くて確かなのだ。
悠理はそこまで考えるとほっこり優しい気分になった。
そして再び緩やかな眠りに落ちて行くために夫の腕の中に帰っていった。
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