2015/02/06 (Fri) 21:44
清四郎が騒ぎの元へと向かうと、どうやら母屋では使用人たち皆が起きだしているらしい。
「何事か。」
と清四郎は下働きの男を掴まえて訊く。
「は、不審な人影がつい先ほど見えたと雑仕女(ぞうしめ:下働きの女性)たちが言いまして。」
「先ほどとは?」
「小半刻(1時間弱)もたたぬ前に。」
では悠理のことではなかろう。彼女が部屋にやってきて一刻(約2時間)にはなる。
厄介なことになったものだ、と清四郎は舌打ちした。
「清四郎さん、野梨子さんが部屋にいらっしゃらないの。」
母の慌てた声がした。今宵は父親は院の御所に詰めているので不在である。
「ご心配なさらずに。彼女は客人と一緒に僕の部屋にいますから。」
頭痛がしそうだ。いくら野梨子がもとは自分の妻となるように話が進んでいたとはいえ、これでは既成事実を作ったも同然ではないか。
ましてや客人が何者か、とは言い出しにくい。
「ともかく、賊が入り込んだのか、しっかり探すんだ。」
と、清四郎はすぐ傍にいる男に命じ、自分も庭に下りて母親の追及をかわすことにした。
一方濡れ縁に残された母親は、というと、客人と野梨子を二人きりにさせたということは客人は女性なのだろう、と当たりをつけていた。
それにしても、清四郎さんが、ねえ。明日には野梨子さんに客人のことを訊いてみなくては、と、賊のことはきれいに忘れて呑気に考える母親の姿を、息子は過たず予想済みだった。
「うわあ!鬼じゃ!鬼じゃあ!」
という下男の悲鳴が聞こえた。清四郎はそちらへと走った。
ちらり、と薄衣(うすぎぬ)がひらめくのが見えた。
腰が抜けたらしい下男の視線の先、門の上で今にも逃げていこうとしている者がいた。
月を覆っていた雲が途切れ、その姿が照らし出された。
風で舞った衣から光の残滓のような色の髪が零れている。こちらを振り向いた奴の顔は、口が耳まで裂け、丹の粉(にのこ)を塗ったような赤い肌でぎょろりと目をむいた形相をしていた。
「ひ、ひ、ひいいいい。鬼ばば・・・」
と、下男は情けない悲鳴をあげる。
「ばか者。あれは面だ。」
赤鬼の面をかぶっているだけだ。それにあの長身、どう見ても男のものだ。
「あの髪の色、あいつは・・・」
薄衣の中は水干姿に小袴。そして背中になにやら荷をくくりつけている。
「唐渡りの文箱(ふばこ)、いただいていくよ。」
面の下からくぐもった声が聞こえた。どうやらこの家にある唯一の高価な品が盗まれたらしい。
「中身はちゃんとお部屋においといたからね。」
翌朝、急を聞きつけて御所から戻った衛門大夫(清四郎の父)は寝所でひっくり返された文の束を見つけ、妻の目に触れぬように慌ててそれを仕分けする羽目となる。もちろん、すでに妻はすべて文の差出人を確認した後だったのだが。
鬼はそれだけ言うと、ひらり、と門から身を躍らせて闇へと消えた。
この月夜にあの浮かび上がるような容姿であるというのに、存外逃げ足は速いと見えた。
後を追うのは下男にまかせ、清四郎はひとまず女たちが待つ、己の寝所へと足を向けた。
恐らく臆病風に吹かれた下男のおぼつかない足取りでは奴に追いつくのは不可能であろうと思われたのだが。
「い、いま悲鳴が・・・?」
野梨子がぶるりと身を震わせた。いくら気丈な娘でも、彼女は悠理と違ってか弱いお嬢様なのだ。
悠理はそんな彼女が安心するように彼女に体温が伝わるほどの近距離に片膝を立てて座っていた。手には短刀を握り締めている。
「鬼・・・?っつったか・・・?」
庭で下男があげる叫びを聞きとがめた悠理は眉をひそめた。近頃鬼と呼ばれる風体の賊といえば・・・
ゆらり、と灯火が揺れ、ふっと消えた。
「ひっ!」
と野梨子が声にならない悲鳴を上げた。
「おう。仕事もしないで何やってるんだ。」
いつの間にやら悠理のすぐ近くに気配はあった。うっすらと怒気をはらんだ男の声がする。
悠理は途端に短刀を握る手から力を抜いた。
「この家で仕事だと?」
低い声音で訊ねる。野梨子が震えているのが衣ごしに伝わってくる。
「まあ、受領ほどの土地もない武士の家だ。めぼしいものもなかったがな。」
くぐもった声。面でもかぶっているかのようだ。
「毎夜、悠理御前が通う色男ってのに興味があったんで、ね。」
からかうような口調に、だが殺気が滲んでいて、悠理は冷や汗を流した。
こいつがこんなに怒るところなんか知らない。
「別に。客をとる気がないからここで物語して時間をつぶしてるだけだよ。」
「なぜ俺のところに来ない?」
ぐっと右手を掴まれて悠理は顔をしかめた。
「痛いだろうが!離せ!」
闇の中を見通すようにして男を睨みつけようとするが、いかんせん男のほうが力が強く、腕を振り解くことが出来なかった。
「乱暴はおよしになって!」
急にやんわりとした小さな手が、悠理の腕を掴む男の手にかけられた。
男がびくりとするのがわかる。
「野梨子!大丈夫だから下がってろ。」
自分が守るべく清四郎から託された野梨子の手だと気づいた悠理は、彼女をたしなめる。逆に守られててどうするんだか。
「気が強いな。顔に似合わず。」
呆気にとられたような男の声がする。
やがて、くすくすという笑い声とともに男は悠理の手を解放した。
「はいはい。俺が悪かった。乱暴でしたよ。」
というその声が妙に上機嫌なので悠理はぽかんと口を開けた。
この貴族嫌いが貴族のお嬢さんの言葉に従うとは・・・
その時、すぱんっという音とともに、縁に繋がる引き戸が解放された。
月明かりが急に入ってきて、室内の者たちを照らし出す。
「悠理!野梨子!無事か?!」
逆行になって顔が影になっているが、引き戸を開けたのは清四郎だったのだとわかった。
この部屋の灯火が消えていることに気づいて駆けつけてきたものらしかった。
「清四郎・・・」
と、悠理が呟くより早く、その前から室内にいた闖入者が動いた。
「きゃ・・・」
という野梨子の小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「なるほど。鬼の一味がもう一人、ですか。」
と口端をくいっと上げた清四郎の至近距離に、こちらは青鬼の面をかぶった男が月に照らされ立っていた。
じりっと睨みあう。
抜き身の太刀を構える清四郎は目の端で、手を取り合って座り込んでいる女たちの様子を見た。とりあえず何も不埒はされていないようだな。
ふと、悠理が左手で右の手首を押さえているのが目に留まった。
「右手を、どうしました?悠理。」
その静かな声音に悠理はぴくり、と身を震わせる。
「べ、別に、なんでもないよ。」
と強がってみせる声が、ほんの少し揺れていた。
「そうですか。で?青鬼どの。この菊正宗清四郎の前に現れたからにはそれなりの覚悟があるんでしょうねえ?」
じり、と一寸(約3.03cm)ばかり足を滑るように前に出す。
青鬼もすっと身を引く。
そのまま互いの距離を保ったまま、対峙したまま、円を描くように体を動かす。
清四郎は室内へ。青鬼は庭の方へ。
風のない夜。
物音一つしない対峙。
月の光がすべてを暴露する如く降り注ぐ。
たん、と青鬼が庭の方へと後ろ向きに飛ぶのと、清四郎が彼の方へと身を伸ばすのは同時だった。
一閃した太刀に、月の光が映りこむ。
かっ!という乾いた音が響いた。
「み・・・!」
悠理が叫びかけて声を飲み込んだ。
ざっと土を踏みしめる音をさせて青鬼は着地した。
半瞬ほど遅れて、ぱか、という音がした。
青鬼の顔が真ん中で割れて、地面に落ちる。
その下から、傷一つない人間の男の顔が現れた。
鋭い目が伏せられることなく、縁に膝をつく清四郎のほうを見据えている。
清四郎は、というと一閃した太刀を右手に持ち、そのまま続けて左手で鞘を体の前に持ってきていた。
「やりますね。あの時の魅録、ですか。」
鞘に刺さった短刀を冷静に横目で見やる。
「あんたこそ、面だけ割るなんて器用だな。」
魅録がごくり、と唾を飲み込みながら言う。
そのまま、再び音もなく睨みあう。
女たちも固唾を呑んでそれを見守る。
野梨子はただただ大きな目を見開いて庭に下りた魅録を見つめていた。
「今日のところは傷みわけ、てところでどうだ?」
魅録の口がゆっくり動く。口元はうっすら微笑んでいる。
「そうですね。僕たちがやりあっては二人とも無事に済みそうもない。」
清四郎は構えた太刀もそのままに微動だにせずやはりにやり、と笑う。
数瞬の間の後に、魅録は立ち上がり、颯爽と消えた。
清四郎は手を出さず、それを見送った。
ふう、と息をつき、太刀を一閃させて鞘に収める。
ちき、という小さな音とともに刃は鞘に飲みほされた。
そして鞘に刺さった短刀を抜き取り少しの間それを見つめると、懐に収めた。
「悠理、どういうことか説明してもらいますよ。」
言いながら振り向いた彼の目に映ったのは、呆然と彼の後ろの空間を見詰める野梨子一人だった。
そこにはここ数晩で見慣れた白拍子装束の娘の姿は掻き消えるようになくなっていた。
清四郎が魅録との対峙に気を取られている間に消えたものらしかった。
「悠理・・・」
清四郎はそれを認めると、振り返り、月を仰いだ。
間もなく満月を迎える月が、煌々と今宵のすべてを照らし出していた。
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