2015/02/06 (Fri) 21:58
魅録と野梨子も去っていった。
清四郎もますます羽振りのよくなった鬼一座の屋敷へと向かうことはなくなっていた。
ほんの時折、宴席で舞う可憐と、彼女に笛の音を送り続ける美童とを見かけることがあった。
それだけだった。
姉から、大納言家の悠理姫に多くの貴公子達が求婚しているという噂を聞いた。
彼女が大納言家に帰ってから一年が経っていた。
野梨子が出奔する前の日に言っていた言葉が頭をよぎった。
「清四郎も、悠理様を攫っていけばよろしいのに。」
清四郎はふっと微笑んだ。
そんなことできようはずもないではないか。
今や彼女は手の届かぬ月の住人。
いつまでも夢に出てきて彼を苦しめるけれど、いずれは忘れてくれるだろう。(この時代は想うことで相手の夢に自分の姿を映せると信じられていた。つまり夢に見るのは相手が想ってくれている証。)
恋ひわびぬしばしも寝ばや夢のうちに見ゆればあひぬ見ねば忘れぬ
───少しでも寝よう。夢の中で逢えるならそれでよい。逢えぬとしても眠っている間は忘れていられるから・・・(小野小町・新千載)
「大姫様はこちらにいらしておりませんか?」
と、泡を食って小者が飛び込んできたと聞いて、清四郎は絶句した。
いわく、本日は婿取りの日であったと言う。いつまでも清四郎を忘れずに待ち続ける娘によかれと思って、両親が三位の中将との結婚の段取りをつけたのだった。
だがしかし、まだ暮れて時の経たぬ宵に姫の部屋へと入り込んだ中将を待っていたのは、彼女が残した反古(書き損じの紙)のみだった。
大納言家の追っ手はすぐにも彼女がもといた白拍子一座に差し向けられたが、彼女は戻っていないとのことだった。
次に彼らがやってきたのがこの菊正宗家だったのである。
ここにも来ておらぬと知ると、使者は途方にくれながら大納言家へと戻っていった。
それから小半刻の後、清四郎の部屋に忍んでくるものがあった。
「来ると思ってました。美童。」
文机から顔を上げ、清四郎は振り向いた。濃い色の被布(かづき)を被り姿を隠した男がそこにはいた。
「よく大納言家の見張りに見つからなかったものだ。」
「魅録と一緒に盗賊してた僕に何を言うのさ。」
ふふん、と鼻を鳴らす彼に、清四郎は苦笑した。相棒が消えてからは鬼の面をかぶった盗賊の噂は聞かなくなった。引退したものだと思っていたのに。
美童は懐から捻り文を取り出すと、清四郎の前に置いた。
「廃寺で・・・彼女から・・・」
それだけで通じる。
清四郎はその文が来るのがわかっていた。悠理が大納言家から逃げ出したと聞いたときから。何を書き残して行ったかを聞いたときから。
彼はそっと文を手に取ると、丁寧に広げた。文面に目を走らせる。
だが美童は、清四郎の顔が見る見る真っ赤に染まって、まるでこの場面に見合わない表情に崩れるのを見た。
唖然とする彼の前で、文を見ていた色男は額に手をやってがっくりとうなだれた。
「なに?何が書いてあったのさ。」
「まったくあのお嬢さんと来たら・・・」
清四郎は美童には応えず、ふうっと一つため息をつくと、文机からそれまで自分が書いていた文をとり、折りたたんで美童に差し出した。
「すまんが、頼まれてくれるか?美童。」
「いいけど・・・」
清四郎からの文を受け取りながら美童は自分が持ってきた文の中身のほうが気になっている。
直垂姿で太刀をとり、仕度の整った姿で出ようとした清四郎は、ぽつり、と言った。
「二人してむすびし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ・・・だそうですよ。」
───あなたと二人で着物を着て結んだ紐を、あなたに逢うまでは一人では解きませんよ。(他の人が解くなんてとんでもない。)(伊勢物語三十七)
「つまり、他の男とは寝ませんよ、と。なに?あいつととっくにそういう仲だったわけ?」
美童がにやにやしながら言う。
「そんなわけないでしょう。本当にあいつと来たら意味がわかって言ってるのか?!」
腹を抱えて笑う美童を目で制しつつ、清四郎は屋敷を抜け出した。案の定、悠理を待ち伏せするつもりなのか、大納言家の者であろう見張りがいた。だが、見つかる清四郎ではない。
お前が解かなきゃ、悠理の心を封した紐だって解けなかったさ。美童はそう言って友人を見送った。
美童が来ずともわかっていた。この廃寺に彼女がいることは。
何ヶ月か前まで魅録が隠れ住んでいたここは、我ら六人のほかには知るものはない。
今では無断で住処にしていた男もおらず、好きに使えることも、恐らく彼女は姉からでも聞いて知っていたに違いない。
清四郎は戸に手をかけようとして、動きが止まった。
衣擦れの音。懐かしき彼女の声。
透き見してみると、小さな声で囁くように歌いながら、彼女は舞っていた。
「いにしへのしづのおだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな」
───糸繰りを繰り返して糸を巻き取るように、時間を巻き戻して昔に戻ってしまいたい。(伊勢物語三十二)
昔関係があったが今は途絶えてしまった恋人を想って、男が詠んだ歌。
彼女の姿はとてもではないが優雅とは言えなかった。
単(ひとえ)に緋袴。小袿を数枚羽織っただけ。寝所からそのまま抜け出してきたらしい。
何がひどいと言って、袴だ。長袴では動きにくかったのだろう。足首が見えるくらいまでに短く引き千切られている。
清四郎は思わずくすくすと笑い出す。
その気配に気づいたのか、悠理がぴたりと動きを止める。
「我ならで下紐とくなあさがほの夕影またぬ花にはありとも・・・なんて僕は言わなかったはずですけど?」
───自分以外があなたの下着の紐を解くことは許しませんよ。いくら朝顔が夕方まで待たぬ花だからってね。(伊勢物語三十七)
色好みの女性に向かって男が詠んだ、浮気をたしなめる歌。「二人して・・・」の歌はこの歌に対する返歌である。
「でもお前は何度も夢に出てきたんだ。清四郎。」
悠理が嬉しそうに笑んだ。
「あなたも僕の夢に何度も出てきてくれましたよ。」
「当たり前だ。ずっと待ってたんだぞ。お前からの恋文を。」
つん、とすねたようにそっぽを向いた彼女があまりに一年前と変わらないので、清四郎はこれは夢なのではないかと思いながら中に入り、戸を閉めた。
だとしたら何と幸せな夢だろう。彼女が僕の夢にこんなにもはっきりと現れてくれるとは。
「でも来なかった。他の男と寝ろと言われた。」
「結婚でしょ?白拍子が男と寝るのとは全然違う。」
座りながら清四郎がたしなめるように言う。だが、悠理はかっと目を見開いて、清四郎の傍に膝をついて掴みかかった。
「何が違う?!意に染まぬ相手と寝ることに変わりない!あたいはお前の北の方になるために帰ると言ったろう?」
ならば僕は「有難い」、ありえないことだと言ったでしょう?と清四郎は口には出さずに思った。
彼女は本当に世間を知らなさすぎる。
「家に帰って言われた。お前とあたいじゃ身分が違いすぎるって。今度は逆に、お前の身分が低すぎるって。」
たぶん彼女は知らない。権中納言様に清四郎が呼び出されたことがあることを。
悠理があまりに清四郎を恋しがるので、一度はその願いを叶えようとされたことを。
今はしがない北面でも清四郎の将来性を買っている、と権中納言は言った。
だが、清四郎はその申し出を受けることは出来なかった。
自分などを夫としては軽んじられるのは彼女だ。そして剣菱大納言家の人々だ。
だから、清四郎にはこう言うことしかできなかった。
「実は・・・この世の儚さに思いを馳せるにつけ、出家したいと望むようになったのです。両親を捨てて行くという罪業を負うことになるので今はまだ思いとどまっておりますが。」
悠理以外の女と結婚するつもりはない。だから出家しようと思っていたのは事実だ。
「このような若輩者のことはお捨て置きください。姫にはもっと家柄のふさわしい方がいらっしゃいます。」
姉から聞いたことがある。あからさまにではなかったが。
大納言家。姉とて貴族の娘。女房たちは受領の娘などが多かった。親から上流階級に追いつくべく特権意識を植え付けられた者たち。
家の外には洩らされぬようにされていたとはいえ、悠理が白拍子として暮らしていたことは彼女たちの好奇の目を誘った。
作法や言葉遣いを彼女に教える役の女房たちがあまりに悠理を軽んじるので、思い余って姉がその役に立候補したらしい。
それでなおかつその女房の弟と結婚などしたら今度はなんと言われるか。
───ほれ、あの姉弟は閨事でこの家を乗っ取ろうとしておるぞ。
自分たち姉弟がそう言われるだけならよいが、悠理はきっと心を痛める。菊正宗の両親にも累は及ぼう。
「じゃあ、あたいが白拍子に戻るしかないじゃないか。」
「悠理・・・」
「同じ身分違いで結婚できなくても、白拍子ならお前に抱いてもらえる。」
悠理の目はどこまでもまっすぐだった。
清四郎は目をそらすことなどできなかった。
「どこが違うんだ?白拍子として男たちに抱かれるのと、大納言家の姫として他の男に抱かれるのと。」
清四郎でなければ同じ。
清四郎が抱いてくれるのでなければ、同じ。
そして男は、湧きあがる思慕の情に飲み込まれる。
そんな目で僕を見るな、悠理。
そんな声で、情を乞うな、悠理。
「一晩買わぬか?おにいさん。」
紅を引いた唇で、嫣然と、女は微笑んだ。
男には、それに抗えるだけの力は、残されていなかった。
「・・・今宵一晩、あなたを買いましょう。」
唇は僕のもの。この唇は僕のもの。
彼女の腰紐を解くのももどかしく、唇を貪る。
花が咲く。彼女の頬が花に染まる。
花が咲く。彼女に焚き染められた清四郎の知らぬ上等な香の匂いが衣とともに滑り落ちる。
花が咲く。代わりに部屋に広がるのは彼女の匂い。かぐわしいまでの懐かしい匂い。
甘い匂いに包まれて、清四郎は花に埋もれる。
そして、花びらを白い柔肌に散らした。
悠理はむせ返るほどの甘い匂いに息をすることさえもままならず、ただ波間を漂う小舟のように頼りない己を、男にすがりつくことで支えていた。
男に与えられる大小の波に翻弄され、小舟は大きく揺らぐ。
だが、その波は、初めて知るものであり、しかし生まれる前から知っていたようであり。
ひどく懐かしい波だった。
不思議だ。なぜこの薄情な男でなければならぬのか?
不思議だ。なぜこの得がたい女でなければならぬのか?
ただ、この今にも崩れ落ちそうな粗末な部屋の中だけが今は彼らの世界だった。
身分も、立場も、家族すら、すべて忘れて。
すべて儚い夢の如く。
そして───二人は溶け合った。
清四郎は気だるい眠りを漂っている。
悠理はその寝顔が愛しかった。ただ愛しかった。
微笑を浮かべ、その頬に唇を落とす。それでも男は目を覚まさなかった。
そっと身を離す。下腹部がうずく。
幸福な痛みに思わず己の体を抱きしめる。
そして床に落ちた、自らが流した赤い花びらに触れる。
そっと。指先で。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
───死を前にしてこの世の名残に望むことはただ、あなたにもう一度逢うことだけ(和泉式部・後拾遺集)
反古に書き付けた歌が心をよぎる。
逢えた。一度だけこいつに逢えた。だから、もう心残りは・・・ない。
床に散らばった己の衣類を手に取る。手に触れた硬いものを握った。
九年ぶりに戻った愛娘に、真幸くあれと渡された守り刀。
親に先立つ罪。己の命を断つ罪。
それを知らぬではないが、そんなものはどうでもよい。
心残りは、もうないのだから。
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