2015/02/17 (Tue) 23:32
最初はただ、あいつがいつまで待っていられるのか見てやるだけのつもりだった。
何度か来なかった夜もあった。だからもう来なくなったんだ、と思ってほくそえもうとした。だけどどこかでほっとしている自分と、がっかりしている自分がいた。
それに気づくのはそのあくる夜。
やっぱりそこにあいつが来ていることを確かめに行ってしまうのだ。
きっと前夜は夜勤だったのだろう。だって王都警備があいつの仕事なんだから。
仕事で来れない夜があっても、次の晩には必ず現れるあいつ。
夜は冷え込む。だから、思わず声をかけた。
ただ、それだけのはずだったのに。
丁寧に鏝を当てられ高く結い上げられた緩いウェーブの髪が揺れる。
ぽっちゃりと、しかし厚すぎない唇の端が妖艶に持ち上げられている。
目元の黒子と血色よいが丁寧に手入れされた白い肌とがその匂い立つような色を引き立てている。
しかし形のよいまろやかな額に小さく巻かれた後れ毛と、澄み切った鳶色の瞳に映る楽しげな光とが、彼女の本当の歳を表しているのだろうと思えた。
悠理は自分をまじまじと見つめる女を観察していた。
ステーキハウスから出るなりこの女、だ。
「あんた、すごく綺麗ね。」
それが女の第一声だった。
もちろん悠理はこの動きやすさで選んだ男装姿だし、野梨子のみならず他の女性から熱い目で見つめられるのは慣れている。
でも目の前にいる彼女の目にそのような熱は見えなかった。
「可憐?可憐じゃありませんか?」
店を出るときになって、警備隊長にぜひとも相談したいことがある、という中年男に呼び止められていた黒髪の男が悠理の背後から声をかけた。
「はあい。清四郎、お久しぶり。」
可憐と呼ばれた女はにっこりと笑んで、片手を小さく胸の前で振った。
途端、瀟洒なレースで飾られた袖口から甘い香がふわりと匂った。
こんな時間に女が一人歩き。そんなの酒場の女か春をひさぐ者だけかと思っていた。
だが目の前の女はそういう種類の者には見えない。
商売女では悲しいかな、とうてい手に入れることなどできない上等な生地のドレスを着ている。
手触りのよい毛織物の布地。そして光沢のあるレースは東洋渡りの絹で出来ているのだろう。
可憐はにんまりとした少し幼げな笑みを浮かべると、口を開いた。
「清四郎が美少女と連れ立って歩いてるって噂になってるから、ね。」
「たった一晩で、ですか?」
清四郎が心底意外そうに眉をひそめた。
すると可憐はけたけたと声を立てて笑った。
「あんたたち、自分たちがどれだけ目立つ外見をしてるか自覚したほうがいいわよ。」
「それはお互い様じゃん?」
言われて可憐は、口の端をに、と上げた悠理と視線を合わせた。
「当たり前じゃない。あたしの美貌は王都一よ。」
「昨夜おっさんたちが噂してたのってあんたか。」
そこで清四郎が口を挟もうとする。
「悠理、こちらは・・・」
「黄桜可憐よ。で?嬉しいじゃない。どんな風に聞いたのかしら?」
清四郎を軽く一睨みすると、可憐は悠理に艶やかな笑みを向けた。
「あたいは悠理。おっさんたちはあんたのこと、夢見るように美しい美姫だってさ。確かにその通りだな。」
「あら、ありがとう。」
「そんで親同士が決めた警備隊副隊長さんの婚約者で、遊び歩いてるあばずれだってさ。」
それを言われても可憐の表情は変わらなかった。とうに自分がなんと言われているか知っているのだろう。
だが・・・。
「可憐。空気が冷たいですよ。」
「そお?」
冷や汗を流す清四郎をよそに、可憐は悠理に顔を近づけた。
「面白いわね、悠理。」
声の温度があからさまに下がっている。笑んでいるのに、目がきらりと悠理を見据えている。
「で?あたしがあばずれですって?そう見える?」
そのドスが利いた声すら悠理は平然と受け流した。
「こんな夜に出歩いてるようじゃな、どう“誤解”されても仕方がないと思うけど?」
沈黙。
「“誤解”・・・ねえ?」
ふ、と可憐の瞳が和らいだ。
「そうね。あたしは男どもには唇までしか許してないわ。魅録も含めてね。」
可憐が“そう”認めたので、清四郎は少しばかり目を見開いた。
彼女がわざわざ周囲を“誤解”させようと振舞っている理由には気づいていたので。
そして当然周囲のそれが“誤解”であることも。
「清四郎、あんたこんな面白い奴とどこで知り合ったのよ。」
「言わぬが花、ってやつだよ。」
きらり、と悠理の金色の瞳が光る。彼女は知らぬほうがよいだろう。
可憐は少し顎に指をあてて考えていたようだったが、悪戯でも思いついたように悠理の手を取った。
「ね。清四郎。今夜一晩、悠理とつき合わせてよ。あたし、すごく気に入ったわ。」
「お前も面白いよ、可憐。」
二人はまるで恋人同士のように一瞬見つめあうと、くすくすと同時に笑い出した。
それはとても奇妙な光景だった。
王都警備副隊長の婚約者殿である貴族の娘と、素性の知れぬ男装の美少女とが、下々の集まる酒場の片隅で楽しそうに飲んでいるのだ。
もちろん傍には二人の女性の警護よろしく、黒衣の青年貴族が控えているわけだが。
少女二人は、生まれたときからの親友のように打ち解けあっていた。
「居心地悪そうだね、隊長さん。」
酒場の亭主がさすがに同情したように話しかけてきた。
「女性二人が集まるともう男の手には負えませんよ。」
清四郎は苦笑すると肩をすくめて見せた。
「ちげえねえ。」
わははは、と笑いが酒場を包んだ。
「色んなところを旅してるのね。」
「ああ。でもまだあたいたちが旅したのなんて世界のほんの一部だけだよ。」
可憐はほう、とため息をつく。
「あたしはこの王都からも出たことないってのにね。」
遠くを見るような瞳は少しばかり夢見心地。
「どこへでも行けるよ。魅録には1回しか会ったことないけど、あいつならきっとお前を連れてってくれるよ。」
「そうかな?」
「そうだよ。」
女二人を目の前に、清四郎は目を細める。
魅録とともに彼女の幼馴染として過ごしてきたが、こんな可憐を見たのは初めてだ。
年相応のうっとりとした表情を浮かべ楽しげに笑い声を立てる様は、ここが酒場であることを忘れさせる。そう、まるで貴族の館の庭で陽光の下、少女たちがピクニックでもしているような光景だった。
「魅録にも見せてやりたいですよ。」
きっとこれが彼女の本質。
婚約者である魅録も知らぬだろう、この姿なのだった。
「なんで周りを“誤解”させるんだ?可憐。」
「言わぬが花、でしょ?」
くすくすと笑いあう彼女たちの姿に、酒場中の空気が華やぐような気がした。
「野梨子にも会わせてやりたいな。」
別れ際。可憐を彼女自身が住まう屋敷へと送ってきたところで悠理が呟いた。
「一緒に旅してるんだっけ?」
「そ。」
───そこでさ、野梨子ってばいっぱいに目を見開いてやんの。もうおっきな目が零れそうだったぜ。牛って生き物は知ってても、実物を見たのは初めてだったって。
───月下香っていう東洋渡りの花があってさ、それがすごく野梨子に似合うから頑張って手に入れたんだ。
あんとき野梨子がさ。と。
たった数時間の会話の中で、何度その名前を聞いただろう。
可憐はもとより指折り数える気などなかったが、あまりに繰り返すので少し気になっていた。
「野梨子ってあんたの姉妹?」
だから無邪気に訊いてみた。
その言葉に傍にいた清四郎の表情が強張るなんて思わなかったから。
え?と首をかしげた可憐に、悠理が静かに微笑んだ。
「そうだな。血は繋がってないけど家族みたいなもんだよ。あいつってばあたい以外に女の知り合いがいないからな。」
「ふうん。」
じゃあ、そのうち野梨子にも会わせてね。
そう言って可憐は屋敷の中へと消えた。
そのまま二人は城壁へと向かう。
「今夜も、僕の血は要りませんか。」
ぽつり、と清四郎が呟く。
「今夜もステーキをたっぷり食ったからな。」
悠理の表情はずっと変わらない。柔らかい笑みを浮かべたまま。それは無表情にも見えた。
本当は獣の血でもいいんだ。
でも一頭だけであたいたちが満足できる量の血が吸えるのは熊か狼くらいでさ。
人間以上に捕まえるのが難しくてさ。
だが清四郎はそんな悠理の言葉など聞こえぬかのように言葉を繋いだ。
「野梨子さんは、恋人じゃなかったんですか?」
家族みたいなもんだよ。先ほど悠理はそう言った。
「恋人だよ。あたいの伴侶だ。だから家族。」
子供を作ることは出来なくても。
「可憐には家族としか言いませんでしたね?」
清四郎の追及に悠理は困ったように笑んだ。
「いきなり同性だけど恋人同士です、なんつってあのお嬢ちゃんに理解できるもんか。」
自嘲にも近い笑みとともに吐き捨てるように言った。
「本当にそれだけ?」
清四郎の言葉が悠理の胸を突き刺す。
この男は結局なにも知らないのだ。
その言葉にどれだけ悠理の胸が痛むのかさえ知らない。
いや、もしかしたらその痛みを残酷にも期待しているのかもしれないな。
悠理は足を止めると、きゅっと一度唇を噛んだ。
そしてぐい、と男の衣服の胸元をつかむ。
清四郎がなにが起きたか気づかぬうちにコトは済んでいた。
「もう、黙れ。」
言われて清四郎はただ呆然と立ち尽くした。
唇に、柔らかな彼女の唇の感触が残っていた。
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