2015/02/20 (Fri) 00:01
きゅっと男のシャツを握り締める。
ボタンを二つはずして肌蹴させていた胸元に唇を寄せる。
胸骨の上の端、首の筋が左右から合わさってきて出来た中央のくぼみに舌をちろりと這わせる。
男の体温が上がるのがはっきりと感じられた。
女は顔を見上げると、じっと黒い瞳を覗きこんだ。
「あたいを・・・抱けよ。清四郎。」
そしてゆっくりと、微笑んだ。
「なに?あんたたちまだ清く正しい男女交際なのお?」
可憐がカフェテラスの店先で頓狂な声を出すものだから、野梨子は赤面すると慌てて「しいっ」と人差し指を口の前に立てた。
当の悠理はというとほんの少しばかり頬を赤らめつつ、すうっと目を細めて可憐を睨んだ。
女三人の帰り道。可憐宅の近くに新しくできたオープンカフェは、キャラメルマキアートが絶品なのだと評判だった。
悠理はぐちゃぐちゃと目の前の残り少なくなったキャラメルパフェの下層のアイスクリームをスプーンでかき混ぜる。
「だったらなんなんだよ?」
手を伸ばし、チャイを一口啜る。
可憐は己の前にあるカップの両側にばん、と手をついた。ホットのキャラメルマキアートがその振動で琥珀色に波打った。
「だってあんたたち、とっくにって思ってたから・・・」
清四郎の熱い視線に犯されて、女の顔になっていた悠理。
清四郎が恋心を告白して二人が付き合い始めたのはもう一月以上も前のこと。
二人の間に交わされる視線の艶に仲間たちは当てられっぱなしだった。
てっきり付き合う前に、二人は一線を越えてしまっていたと思っていた。
「・・・してない。」
チャイをまた一口啜りつつ悠理は憮然とした面持ちで言う。
「それじゃあ別に清四郎から無体なことをされていたわけではありませんでしたのね?」
あの時の悠理の様子に清四郎への怒りをたぎらせていた野梨子は内心で胸をなでおろした。
すると悠理はじいっと野梨子の方を見た。その目に野梨子はほんの少しひるんで、目の前にあるキャラメルマキアートを一口啜って気分を落ち着けた。
かちり、と野梨子がカップをソーサーに戻したところで、悠理は口を開いた。
「その“無体なこと”ってのをされない現状が不満なんだ。」
可憐が取っ手だけ掴んでまだ持ち上げていなかったカップがソーサーとぶつかってがちゃり、と音を立てた。
野梨子も見事に凝固してしまっている。
二人の親友からまじまじと見詰められつつ、悠理は平然とパフェの残りを口に運び、チャイをずずっと飲み干した。
「ま、あいつの弱点はしっかり把握してるし、押し倒しちまえばこっちのもんだけどな。」
と、最後ににやりと笑った。
「じゃ、弱点把握してるって、それはいつの間に?」
可憐が明らかに動揺しつつも的確に訊ねる。
どう考えても彼女ならともかく悠理の口からこのセリフが出ることが信じられないのである。
「お前らが気づいてない間に。」
悠理はけろり、と言う。
「ど、どうやって?」
訊ねてから可憐は、ずいぶんマヌケな問いだったと思う。
「そりゃ実践で。」
と当然のように返される。
「っはー・・・悠理の口から押し倒すだなんだってセリフが出るなんて、恋って偉大ね。」
「そうですわね。」
野梨子は火照った頬をぴたぴたと軽くはたきつつ扇いだ。
そしてふと、悠理が口を尖らせているのに気づく。
「悠理?まだなにか?」
「なんだよ。皆して恋だ愛だって。」
その呟きに、可憐と野梨子は顔を見合わせた。
「なに?こないだの答え、まだ出てなかったの?」
───これが恋かそうじゃないかなんて、あたいにはよくわかんないや。
「まさか清四郎以外の殿方にもそんな感情を・・・?」
野梨子が先ほどまでと一転して青ざめた顔で言う。
だが悠理はふるふると首を振った。
「いや・・・それはないけどさ・・・」
「ないならいいじゃない。清四郎だけってことで、突っ走っちゃえば。」
可憐はあっけらかんと言う。ただの惚気ならおとなしく聞いてやるつもりはない。
「だから、あいつがうるさいんだよ。」
───僕はお前の体が欲しいとは思う。だけどそれ以上に、心が欲しいんです。
「うーん、思った以上に頭かたいのねー、清四郎ったら。」
呆れたような可憐に、野梨子は素直に頷くことはできない。
「それでも心は大事ですわ。」
「野梨子らしい発言、大いに結構!でもあたしはあえて悠理に言わせてもらうわ。」
びしっと指差されて悠理の目が寄った。
「な、なんだ?」
「あたしが許す。清四郎を押し倒しちゃいなさい。」
野梨子がまたもぎょっとする。
悠理はにたり、と口の端を上げた。
「んじゃ、武運でも祈っといてくれよ。」
「くしゃんっ」
「珍しいな、清四郎、風邪か?」
とのんびり魅録がパソコンの画面を見たまま振り返りもせずに訊ねる。
その背後で清四郎はぶるっと体を震わせた。
「いえ、ちょっと悪寒が・・・」
それは嫌な予感とも言う。人はそれを虫の知らせとでも呼ぶのだろう。
その週末、清四郎は剣菱邸への道のりを辿っていた。
そろそろ学年末テストが近づいてきているのだった。高校生活最後の定期テストである。
聖プレジデントは希望すれば内部の生徒はそのまま大学部へ進学できるので、この試験にあまり深い意味はない。卒業できるかどうかを判定するだけだ。
悠理の場合はその卒業すら危うい。卒業まで彼女の勉強の面倒を見るのは清四郎の仕事である。
そして二人が“付き合う”ようになって初めて二人きりでの試験勉強だった。
もちろんこれまでの1ヶ月だってデートを全くしなかったわけじゃないし、二人きりにだって何度かなった。
恋する悠理と二人きりになれるというこの状況だが、清四郎の足取りは重かった。
昔は悠理をしごいてしごいて苛めるのが楽しくて、悠理の家庭教師は彼にとって面白いひと時だった。
それに清四郎が自分の気持ちに気づくまでは、悠理に触れ、悠理から触れられる、貴重な時間だったのだから。
だが今は・・・
「今日は頑張りましたね。思ったより先まで進みましたよ。」
清四郎はぱたん、とテキストを閉じた。
悠理はぐたっとノートの上に突っ伏した。
「あ~、腹へったー。」
誤解のないように言っておくと、現在時刻は土曜日の午前1時である。
清四郎とともに勉強を始めたのは金曜の午後6時半。途中7時半ごろに夕食をとり、9時半ごろに風呂を済ませ、11時ごろに夜食のおにぎりをほおばった。
その上で悠理は腹が減ったと唸っているのである。
「もうあとは寝るだけじゃありませんか。太りますよ。」
清四郎は呆れたように悠理に背を向けた。荷物をまとめてこの邸の中の自室へ戻ろうとしたのである。(婚約騒動の時に用意された部屋が、二人が付き合い始めたことで再度彼の部屋として整えなおされた。)
「なに?ご褒美はないの?」
という悠理の声に引き止められたのだが。
「何のことです?」
努めて冷静に聞こえる声で返す。ごくりと生唾を飲み込むのが聞こえただろうか?
悠理が立ち上がる気配がする。一歩ずつ近づいてくる。
この部屋を去れ、と己に命ずるのに、清四郎は一歩も動くことができないでいた。
すうっと彼女の腕が背後から清四郎の胸に回された。
「食い物がダメなら、お前を食いたい。」
肩口で囁かれ、清四郎は全身を電気が走りぬけるような気がした。
悠理がこう出るのがわかっていたような気がする。
わかっていて、でも、二人きりにならざるを得なかったのだ。
清四郎は己の胸を這う悠理の手を、きゅっと掴んだ。
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