2015/03/23 (Mon) 00:16
この街は迷路の街。
細い道と、細い運河と、細い橋とが、過去と、現在と、未来を、絡め合わせる。
狭く窮屈に建てこまれた壁が、人々の目を塞ぐ。
ここは沈み行く運命の街。
マスケラをつけているのか、はずしているのか、それさえもわからなくなる。
沈み行く、街。
「ここがあと何十年かで沈んじゃうなんてなんだか嘘みたい。絶対新婚旅行でもう一回来てやる。」
とウェーブの効いた髪を風に吹かれながら、泣き黒子の女は運河に浮かぶ町並みを見つめた。
「早くしないと一年の大半が水没するようになりますよ。」
黒髪をきっちりとオールバックに固めた男が言う。
「アクア・アルタ(大潮)の夜だっけ?でも年々水没する日数が増えてるってな。」
モーターボートのエンジン音に耳を傾けながら、ピンクに染めた髪を短く刈り込んだつり目の男が続ける。
「それにしても野梨子の親父さん、大したことなくてよかったね。」
この街には何度も来ている、白い肌に金髪をなびかせた男はそう言って安堵の溜息をついた。
「・・・早くメシ食いたい。」
ショートカットのふわふわの髪を揺らしながらボートの行く先を睨む少女が腹をさすった。
白鹿清州画伯がスケッチ旅行先のヴェネツィアで入院したという連絡が来たのは数日前だった。西洋の風景を日本画で描く新手法に挑戦中だったらしい。
ちょうどテスト休みと連休が重なっていた有閑倶楽部の連中は、白鹿母娘とともにこの街へ来ていた。
幸い、軽い食あたりだったらしく、点滴を打たれただけで画伯は元気を取り戻していた。
街の入り口、サンタルチア駅近くに病院はあった。母娘はその近所のホテルをとった。
残りのメンバーは急なことで街中にしかホテルが取れず、今こうして大運河の上をチャーターした水上タクシーでサンマルコ広場へと移動していた。
「さ、運河に落ちないでくださいよ。」
船着場で細い板をつたって上陸する。
「野梨子はここで落ちそうだよな。」
と、一番乗りで石畳の路面へ駆け上がった悠理がくすり、と笑った。
細い路地に入ったところにホテルの入り口はあった。
美童はディナーの約束を確認して、この街に住む知人の部屋へと向かった。ホテルの部屋が4人分しか確保できなかったのだ。
「残念なことに彼女じゃないんだけどね。」
外交官である父の仕事で世界中を旅するうちに知り合った中年のイタリア人男性だという。
「たぶん女の口説き方とかで話が合う相手なんだろうな。」
と魅録はその背中を見ながら言った。
「その場合、女性の好みが一致しないことが条件でしょう。取り合いになる。」
と、清四郎はフロントで受け取った鍵を握って荷物を手に取った。
ディナーは白亜のリアルト橋を渡ってすぐの路地にあるリストランテ。
地中海の豊富な海の幸と、ソアーヴェと呼ばれるここヴェネト産のヴィノ・ビアンコ(白ワイン)。
「ソアーヴェと言っても一種類ではなくて、いくつもの銘柄があります。当地でお店ごとのハウスワインをこうして楽しむのがいいですね。」
「トスカナのキャンティ(ロッソ:赤)も同様。イタリアのワインはほとんど国外に出回らずに国内で消費されちゃうからね。」
薀蓄をこんなところでも披露する清四郎に、美童はグラスを軽く掲げて見せた。
「顔見ただけで日本語のメニューが出てくるなんて親切よね。」
と、可憐は食後のエスプレッソをすすった。
「しかし俺はそれで脱力したぞ。」
と魅録が苦笑する。
「それだけ日本人観光客が多いんですよ。おかげで悠理も可憐も自力で注文できたじゃないですか。」
「うん。ここのイカ墨のリゾット美味しかったじょ。」
悠理は他の料理でだいぶん落ちたもののまだ少し墨の残る歯を見せながら、満面の笑顔でデザートにぱくついた。
しかし今、彼女の顔は歪んでいた。頭の上で、屋台で買った道化師の帽子の飾り房が揺れる。
「参ったな~。ホテルどっちだっけ?」
ホテルへの帰り道、細い運河の向こう側の路地に野良猫を見つけた。
その愛らしさに悠理は思わずそこへ行こうと、同行者から離れてしまったのだった。
運河を越え、道を曲がり、「あれ?行き止まりだ。」とまた道を変える。
次の路地からならあそこへ行けるはず、と思って曲がった先にある橋を渡るが、やはり最初に猫を見た場所とは全然違うようだ。
諦めてもとの道に戻ろうと思ったときには完全に方向を見失っていた。
「ちょっと。悠理がいないわよ。」
ムラノガラスのアクセサリーショップのウインドウに見入っていた可憐が気づいて声を上げた。
隣のウインドウの、しゃれた文房具をあれこれ言いながら見ていた清四郎と魅録はそう言われて周囲を見渡すが確かに悠理の姿がない。
「か~、やっぱあいつかよ。さすがの野生の勘もここじゃ働かないか。」
と魅録は頭を掻いた。
「ヴェネツィアは比較的治安はいいんですけど、何しろこの迷路ですからね。すぐ捕まえないと。」
細かく入り組んだ運河に路地。車も自転車もバイクも進入禁止(というか進入不可能)のこの街は、物価は高いが治安がいい。
だがあのトラブルメーカーが一人で歩き回るのは危険だ。
清四郎は携帯を海外でも使用可能なものにしておいて本当によかったと、ダイヤルを押した。
「悠理、どこにいるんですか?」
「わかんない・・・」
ふてくされたような声が返ってきた。
「どこか建物に通りの名前が書いてませんか?ローマ字とほとんど同じだから悠理でも読めるはずですよ。」
迷路の街なればこそ、ここではいたるところに通りの名前が書かれたプレートと、サンマルコ広場など観光地への方向を示したプレートが貼り付けてある。
「暗くてよくわかんない。」
「明るいところへ出るんだ。そしてどこか案内板のあるところへ出たらまた電話してください。」
とりあえず可憐も方角が怪しいし一人で夜の街を歩かせるわけにも行かないので、魅録が彼女をホテルまで連れて帰る。
清四郎はなるべく悠理を見つけやすいように来た道を少し戻ることにした。
清四郎の携帯が音を立てた。
「あ、あたいだけど、プレート見つけた。通りの名前は読めないんだけど、ここってリアルト橋だっけ?のがサンマルコより近いみたい。」
「そうですか。じゃあ案内板にしたがってリアルト橋まで戻ってください。さっきの大きな白い橋ですよ。渡らずに手前で待ってますから。」
細い道を通り抜ける。
両側に建物が迫っていて息苦しい。
子供の頃、巨大迷路で遊んだ時だってこんなに心細くはなかったのに。
たまにすれ違う人たちは、髪の色こそ見慣れた黒だけれど、顔は見慣れた扁平な顔じゃない。
耳にかすかに飛び込んでくる言葉も日本語じゃない。
あたいは一人。
皆がいない。
あいつが、いない。
石畳が冷たい。
運河の波が冷たい。
水音が、冷たい。
早足で矢印に従って道を曲がると、目の前に大運河と、右前方に明るく照らされた白亜の橋が見えた。
橋の手前に見慣れた影を真っ先に見つけた。
人ごみも気にならなかった。
対岸の賑やかなカフェも、橋の前後に並んだ華やかな屋台も、まったく目に入らなかった。
「清四郎!」
にっこり微笑んでとびついた彼女を、彼も安堵したような顔で抱きとめた。
「ああ、よかった。心配したぞ。このバカ。」
と彼女の帽子が落ちないように注意しながら頭を撫でる、清四郎の胸に額を押し付けながら、
「ん、ありがと。だいすき。清四郎ちゃん。」
と、悠理はいつものように呟いた。
そして抱擁から少し身を離すと、彼女はえへへ、と舌を出して見せた。
さっきまでよそよそしかった石造りの街が、今度は温かかった。
もうはぐれないようにと、清四郎にしっかり手を繋がれた。
「猫が可愛かったんだ。」
「はいはい。明日猫のグッズがたくさんあるショップに連れて行ってあげますよ。」
てくてくと歩く。
時折現れる運河に街灯が反射する。
どこかからゴンドラ乗りが歌う声が聞こえてくる。
三拍子ののどかな歌だ。
「あれ?参ったな。僕も道を間違えたみたいです。」
ちょっと清四郎が眉をしかめた。
「ええ?あたい覚えてないじょ。」
「サンマルコ広場からホテルへの道順は覚えてますから、ちょっと広場のほうに寄り道しましょう。」
悠理はもとより清四郎にまかせきる以外に方法がないので、おとなしくついていくことにした。
「なあ、こっちじゃなかった?」
と時折路地を指差す。
「不確実に道を曲がってますます迷う気ですか?」
と清四郎は取り合わなかった。
三方を回廊に囲まれた広場に出る。
左手にドームを従えた寺院が見える。正面には鐘楼が聳え立つ。
左前方、水辺の方角には、柱に乗った羽のあるライオン(グリフォン)の像がいくつも立っている。
最初に着いた船着場のあたりか、と悠理も場所を理解する。
「海が見たい。」
と悠理が言った。
広場には観光客だろう、人々がそぞろ歩いている。
船着場のほうはまだにぎやかなようだ。
広場の真ん中から振り返ったムーア人の時計塔が指しているのは21時だった。
「あそこはまだ海じゃありませんよ。さっきの場所に繋がってる大運河です。」
と清四郎が訂正を入れる。
「そんなんどうでもいいだろ?行きたい。」
「魅録たちが心配してますよ。」
「電話すりゃいいじゃん。」
と悠理は自分の携帯を取り出した。
「なんだよ、人に心配させといてデートか?」
魅録の声はあまり不機嫌ではない。
「誰がデートだ!散歩して帰るだけだよ!」
と、受話器に向かって怒鳴る悠理の顔が赤い。
清四郎は苦笑した。
ドージェ(ドゥカーレ:元首)宮の角を曲がると、そこは暖色の街灯が明るく照らしていた。
大運河を右に見ながら、広い道を歩く。先のほうは高級ホテルが建っている一角だ。
海ではないと清四郎は言ったが、潮の匂いがかすかに鼻をくすぐる。
幅の広いアーチ型の橋を渡るために二人は階段を上る。
橋の真ん中では、観光客が橋の下をくぐる小さい運河を背にして写真を撮っているようだった。
清四郎は邪魔にならないようによけながらも、橋を上りきったところで立ち止まって悠理の腕を引いた。
「悠理、ちょっとそっちの上を見てみろ。」
「なんだ?渡り廊下?」
「左側にあるのが裁判所のある元首宮。右側が牢獄です。あの橋を罪人たちは渡ったんだ。」
細い渡り廊下だった。
真っ白な壁。装飾つきの屋根。
「あの橋の名は“嘆きの橋”、“ためいき橋”とも呼ばれています。罪人たちがあの窓から運河を見てため息をついたからそう呼ばれるようになったんです。」
「ふーん。」
白い飾りに見えるのは窓の鉄格子なのか。
罪人の通り道にしては立派過ぎるほど立派だ。
「今は観光コースであそこを渡ることも出来ますよ。明日あれを渡って牢獄跡も見学しましょうか?罪人たちの怨念がさぞや染み付いてるでしょうね。」
おどろおどろしく耳元で囁く清四郎に、悠理が背筋が冷えるのを感じた。
「こんなとこまで来てお化けかよ!あたい絶対に行かないからな!」
と彼に怒鳴り返す。
清四郎はくすくすと忍び笑いを漏らした。
「では、今度は可憐が好きそうな話を。あの橋にはね、もう一つロマンチックな話もあるんですよ。」
「ロマンチック?」
「ゴンドラに乗ってあの橋の下をくぐりながらキスをした恋人たちは、永遠に結ばれるんだそうです。」
悠理の手を握る清四郎の手に力が篭った。
ほのかに、その想いを悠理は聞いた気がした。
清四郎の傍にいることに、いつしか慣れている自分に気づいていた。
いつも嫌味や皮肉を言われるのに、それがないと寂しく感じるだろう自分がいた。
「あ、あんなとこじゃさらし者じゃん。」
「そうですね。」
どちらともなく顔を見合わせた。
「他の人の視線なんか気にならないくらい恋に溺れてる二人ならできるんでしょうね。」
清四郎の目が熱い。
悠理はさっきのソアーヴェが今頃になって回ってきたような気がした。
「可憐や美童なら喜んでやるだろうな。」
悠理は妙に真面目な顔で言う。顔と言葉が一致してない。
「魅録はまずダメでしょうね。」
清四郎の表情もどことなく優しい。
「意外と野梨子は大丈夫かもしれないぞ。あいつ変に大胆なとこがあるからさ。」
目がそらせない。
「悠理は?やっぱり嫌ですか?」
きゅん・・・と胸が締め付けられた。
「お前こそ、どうなんだ?」
と返すのが精一杯だった。
「そうですね。恋人が出来たら、案外平気かもしれませんよ。」
「お前が?似合わねー。」
悠理が顔をしかめたので、清四郎は破顔した。
「じゃあ、今度来るときまでにそういう気にさせてくれるパートナーを見つけましょう。お互いにね。」
と、握った悠理の手を持ち上げて、指先にキスをした。
悠理はその手を振り解かなかった。
手を繋いだままホテルへの道を歩く。
てくてくてく
やけにゆっくりした足取りだと彼女は思う。
帽子の飾り房もゆっくり跳ねる。
「なあ、せーしろー。」
「なんですか?」
「お前、わざと道間違えただろ?」
清四郎は答えなかった。
振り返りもせず、足取りも変えなかった。
ただ、首筋がうっすら赤くなった気がした。
少しでも長く二人でいたかった。
だから彼は道を間違えた。
だから彼女は海が見たかった。
ただ、それだけ。
迷路の街で、互いの想いに迷い込んだ。
ただ、それだけ。
(2004.7.28)
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