2015/03/18 (Wed) 22:46
蝉がせわしなく鳴いている。
すべての感覚が鈍くなっているけれど、聴覚は最後まではっきりと残っているようだった。
やせ衰えた男は、首だけ回してまぶしいほどの日差しが照らす庭先を見た。
陽炎が立ち上るのさえ見えそうなほどの、日差し。梅雨はもう明けたか。
何日か前から腹を下し始めていた。息の苦しさに動かすことも億劫になっていた体が、ますます重く感じた。
否。この体そのものは軽くなっているに違いないのだ。何も食えず、なのに下る腹。
重いのはこの体ではなく、この植木屋の離れの空気か。
みあう。
いつもの黒猫が縁側で鳴いた。
彼は重い腕を懸命に上げ、枕もとの脇差を手に取る。
それを杖代わりに、這うように縁側へと進んだ。
「今日こそは・・・貴女を捕まえますよ、神谷さん。」
神谷流の敏捷な動きについていけなくなったのはいつだったか。
腹が痛い。
昨日からまるで板のように硬くなった腹は、思うように体を動かすことを今まで以上に妨げた。
不思議なことにあれほどひどかった下しが昨夜からぴたりと止まっていた。
だがそれも都合がよい。
鯉口を切る。
す、という音にもならぬ音のみで刃を引き出す。
黒猫は、動かない。
じいっと彼の動きを見つめていた。
まるであの日の彼女のように。
咳が、続くと思っていた。
彼女の表情が曇るようになっていた。豊かな黒髪を惜しげもなく切り、月代を入れた武士たらん少女。
「大丈夫ですよ、神谷さん。風邪が長引いてるだけですから。」
けれど彼は毎夕発熱するようになった。
「沖田先生。松本先生の診察を受けてください。あなたはきっと労咳です。」
彼女は、彼にきっぱりと言った。黒い瞳をそらさずに、濁さずに、ただまっすぐと。
だから余計にその言葉は彼の胸に、驚くほど素直にすとん、と落ち着いた。
ああ、そうか。そうなんだ。と。
彼女はただ凛と、その事実を彼へと告げただけ。
養生はせずに隊務を続けたいという彼の意思を彼女は最大限に汲み取ってくれた。
いつか彼が喀血し、その病が隊の皆に隠れなく知れ、隊務をこなせなくなる、その日まで。
ごとん。刀が落ちる。
これ以上は持っていられない。
彼は崩れ落ちるように濡れ縁へとあと一歩というところに倒れこんだ。
その音に猫は驚いたのか一歩飛びすさんだ。しかしすぐに彼の傍によってきた。
「血の、臭いに惹かれましたか?」
吐息に混じる血の臭い。
彼の体中の血はもうこれまでの喀血ですべて出きってしまったのか、喀血すらできなくなっていたのだが。
血にまみれ、泥にまみれ、野垂れ死ぬ。
あまりにも多くの命を奪ってきた己にはそんな最後が相応しいと思っていた。
大事な大事な近藤先生を守り、楯となれれば、それだけで満足だった。
けれど、結局自分はこうして畳の上で綺麗なままで死のうとしている。
血の気のない己は、白く白く、汚れすらせず。
誰にも看取られずに地獄へと落ちるのも当然の報いと思っていたのに。
「貴女が、私を看取ってくれますか。」
薄く笑むと、猫がまた「みあう」と鳴いた。
どうせ、この願が叶わぬのなら、誓いを守りぬいたとて何としよう。
二月。甲府へ向かう前の晩、彼の元を見舞った彼女を、彼は無理やり抱いた。
もう不犯の誓いなどが何になろう。
「神谷さん、私の代わりに、近藤先生と土方さんを頼みますよ。」
これは、私の魂を貴女に預けるための、儀式です。
そのように言い訳しながら、抱いた。
彼女は何も言わずに、彼を受け入れた。
大きな黒い瞳をまっすぐに見据えたまま、涙も流さなかった。
「はい、沖田先生。」
そんな風に京にいた頃のように、全身で応えてくれた。
泣き虫が涙を流さなくなったのはいつだったろう?
白い肌に溺れながら、彼は思っていた。
そうだ、あれは彼に病を告げたあの日から。
「先生と同じですよ。私の涙は枯れてしまったんです。」
悲しげに彼女が微笑む。彼が彼女にそう告げたときとまるで同じように。
先生の分の涙も流して差し上げます、と言った日の幼さはもうどこにも見えなかった。
「ふふ、大人になったら涙を流さないで公方様のお役に立つ、という子供の頃の誓いがようやく果たせそうです。」
布団に咲いた彼女の赤い花の上に喀血してしまった彼の顔を拭きながら、彼女は言った。
沖田先生の分も、私は戦いますね。
彼の分の涙を流してくれていた優しい少女。
今度は彼の分の血を流し、彼の分の殺生を続ける。
「頼みましたよ。」
頷いた彼の顔は、さながら怪士(あやかし)の面であり、顔立ちに幼さの残る彼女の顔は、さながら万媚(まんび)の面であった。
いま彼女はどこにいるのだろう?
「副長とともに、日光を目指します。」
と言って、最後の挨拶に来たのは三月の終わりか四月の初めだったか。
そのままどこまで進軍したのだろう?
否。目をつぶれば見えるのだ。
彼女が血路を切り開き、土方の傍にいる姿が、見えるのだ。
まだ、彼女は生きている。
おなごの魂をこの黒猫に托し、彼の魂をその身に秘めて、戦い続けているのだ。
「神谷さん、待ってますよ。いつまでも。」
どこで、とは言わなかった。
彼女も、訊かなかった。
「はい。私はいつだって先生に手を引かれて生きてきましたから。」
だから、どこまでもついていきます。
たとえ地獄の果てまでも。
その口伝をどこかの女から聞いてきたのは永倉だったか?
「むかーしむかしの言い伝えでな、女は初めての男に背負われて三途の川を渡るてえのがあるらしいぞ。」
「そんな話、聞いたことないよ。」
それに未通娘(おぼこ)のまま死んだ子はどうすんのさ、と目を見開いたのは額の傷跡も痛々しい藤堂だった。まだ彼の地の西本願寺で日々を過ごしていた頃だ。
そんな言い伝えが本当であれば、この動乱のご時勢、いったい幾許の女が本意でない男に背負われて川を渡らねばならぬのか。
「本当だったら土方さんなんざ川を何往復しなきゃならねえんだ。」
「だな、冗談じゃねえよなあ。」
「サノはおまさちゃんだけじゃないのかい?罪作りな奴だな。」
「なに言ってやがる。おまさと出会ってからはおまさ一筋だぜよ。」
若気の至りを今更責められても困る、と原田は眉をしかめた。最愛の女、おまさを背負って川を渡るのはやぶさかではないが、他の女など断じてごめんだ。
「総司もそういう女はいねえのかい?」
「なに言ってるんですか、私は一人で川を渡りますよ。」
苦笑した彼に、原田は大げさに己の頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「っかー、さびしいねえ。せめて想いあった女と二人、手に手をとって渡ってやろうとか思わねえのかい。」
「原田さん、それなんか違う。」
藤堂が苦笑した。原田の言う情景はまるで駆け落ち道中のようだ。
その話の輪の外で、彼女は静かに繕い物をしていた。
俯くその表情を、そこにいる誰も窺うことはできなかった。
今頃そんな話を思い出した。
彼はやっとのことで体を仰向けにし、畳の上に転がっていた。
先ほどあんな大きな音を立てたのに世話役の婆さんは駆けつけてこなかった。もうかなり耳が遠いのだ。
黒猫が彼の頬を舐める。
「猫にも、労咳はうつるんでしょうかねえ?」
彼は苦笑した。
腹の痛みももう感じなかった。
ぴくりとも指すら動かせなかった。
風に、祈る。
彼女への言伝を、祈る。
待っています。川原で貴女を、待っています。
川の向こうで近藤先生が呼んでくれていたとしても。父が、母が、そして血盟の同志たちが呼んでいたとしても。
貴女を背負って三途の川を渡るのは、私ですからね。
ただ、待っていますよ、神谷さん。
たとえ貴女が生き延びて他の男と同じ蓮の台(うてな)に生まれんと手に手を取り合ってやってきたのだとしても。
貴女とともに川を渡るのは、私です。
貴女に托した私の魂を返してもらわねばなりませんし、ね。
───そうして彼は、最期の一息を、吸い込んだ。
慶応四年五月三十日(1868年7月19日)昼。
(2006.6.18)(2006.7.12加筆修正)
(2006.7.13公開)
(2006.7.13公開)
PR
Comment
カテゴリー
最新記事
(08/22)
(08/22)
(03/23)
(03/23)
(03/23)
メールフォーム