2015/02/05 (Thu) 23:05
(※和子さんが半端なくショッキングな場面を目撃します。ご覚悟の上でお読みください。)
空調の効いた車から一歩降りると、むせかえるほどの熱気がアスファルトから立ち上る。
夏は好きだ。
だけどこの都会の熱気ばかりはどうしても好きになれない。
大学も仕事もなければ、これから尋ねる相手と南の島でバカンスと決め込みたいものだ。
和室の襖を開けると、ひんやりとした冷気。
窓辺には風鈴がぶら下がっているものの、窓が閉じたままのこの部屋では人の動きに合わせて軽くゆれるばかりである。
「あら、いらっしゃい。悠理ちゃん。」
テーブルに頬杖をついて庭の前栽を眺めていたこの家の長女、和子が振り返って微笑んだ。
空色のホルターネックのシャツにブルージーンというラフな姿だ。
「おじゃま。和子ねえちゃん。」
対する悠理は白地にショッキングピンクのダイヤ柄のタンクトップに、赤いサファリパンツである。
その眩しさに一瞬和子は目を細めた。
「清四郎はまだ帰ってなかったと思うけど?」
「うん。部屋で待ってろって言われたから。でも冷房のスイッチだけ入れて降りてきちゃった。」
「そうよね。まだ暑いものね。」
言いながら手元のグラスを持ち上げようとして、それがぬるんでいることに初めて気がついたらしい。
「お茶、入れてくるわ。」
「あ、ありがと。」
立ち上がった彼女を見送った後で、悠理はテーブルを見た。
グラスのあったあたりはびしょびしょに濡れている。
はじめは冷たかったグラスが汗をかき、それが垂れるに任せてどれほどの時間、和子はそこに座っていたのか。
彼女が持っていったグラスはすでに汗も乾ききっていた。
悠理はテーブルの端に残されていた少し乾いた台拭きで、その水分をぬぐう。
「あら、悠理ちゃん、ごめんね。そこ濡れてたんじゃない?」
和子が涼しげなガラスコップに、おそらくは冷蔵庫できんきんに冷えているだろう麦茶が入ったビンを載せた盆を持って戻ってきた。
「いいよ。お茶、ありがと。」
「どういたしまして。」
にっこり微笑みをかわしながら、和子は悠理に麦茶をついでやった。
「悠理ちゃんも忙しいんでしょう?清四郎とちゃんと会ってる?」
「んー、一週間ぶりかな?」
「そっかあ。そうよね。必要単位が多いもん、医学部。」
「今日は家庭教師のバイトしてる奴の代理だってさ。あいつのしごきにあう生徒がかわいそうだよな。」
「経験者は語るって奴?」
「そーそー。あんなんされてたのに惚れちゃうなんて、あたいってばマゾ?」
悠理は苦笑した。
高校3年の秋から悠理と清四郎は付き合っている。大学に合格してすぐに互いの家族公認になった。悠理は剣菱のトップに立つべく聖プレジデントの国際交流学科でがんばり、清四郎は他大学の医学部で医学の勉強をスタートさせた。
互いに多忙の身の上となり、会う時間を持つこともままならないのだった。
もちろん毎日電話で声は聞いているし、こうして少しでも時間ができたら互いの家を訪ねあって会う時間を作るようにしている。
「あいつももう少し時間をとらないとね。悠理ちゃんが不安になっちゃうじゃないねえ。」
「あはは。そんなことないよお。」
言いながらも、内心で悠理はどきり、としていた。
本当は不安。医学部の男子学生はかなり女性にもてると言う。魅録と付き合う以前の可憐だって医学生を狙っている時期があった。
清四郎が通う大学には医療技術短大も併設されていて、看護学生や診療放射線技師科の学生なども多く通っているのだ。
「ま、大丈夫よ。あいつ、いい意味で情緒障害者だから。悠理ちゃんしか目に入ってないわよ。」
和子が片目をつぶってみせる。
悠理はくす、と笑った。
「それって褒めてないよお。」
「弟を褒めてもいいことないもん。」
「ひでえや。」
あはははは、と女たちは笑いあった。
「まあ、あいつもまだ1年だから、今年は夏休みは長く取れるはずよ。」
「だね。8月いっぱいは休みだって。でも9月に試験があるんだよ。」
大学生と言うものはもっと休みが取れるものだと思っていた。
悠理のほうは7月いっぱいで前期試験が終了し、後期の講義が始まる10月まで休みである。
もちろん夏休みの間に、剣菱を継ぐに必要な語学や経営学の講義も豊作の差配で組まれてはいるが、厳しくしすぎてせっかくのやる気をつぶさぬように比較的ゆるい日程だ。
「一ヶ月くらい旅行できると思ってたんだけどな。」
ぽつり、とこぼした悠理に和子は苦笑する。
「文系と理系じゃ違うからね。」
「和子ねえちゃんも大変だったんだよね。てか今日は休み?」
「うん。午前中にちょっと病棟には顔出したけどね。」
和子はこの春にめでたく医師国家試験に合格して、研修医1年目として働いていた。
研修先は菊正宗病院ではなく、災害時救急医療がさかんなことで有名な聖ルルド病院である。
実家じゃやりにくいじゃない。と、医学部6年生のときのマッチングで彼女は迷わずその病院の名前を書いた。もちろん事前に見学に行ったりして人事担当者につなぎをつけ、採用試験にも合格しているのである。
2年間は外で積極的に修行するという彼女を誰も止めはしなかった。
「・・・患者さん、悪いの?」
言い出しにくそうに悠理が口にしたセリフに、和子はきょとんとした。
「え?だったら休みに家にいるわけないじゃない。」
「そっか。そうだよね。」
へへ、と照れたように舌を出す悠理に、和子は苦笑する。
やはりさっきの自分の様子がおかしかったと、この未来の義妹に気づかれてしまったらしい。
蝉の声が遠く近くに波のように聞こえてくる。
かちん、と冷房が音を立てて止まった。室温が設定温度を下回ったのだろう。
「悠理ちゃんは、夏が好きよね?」
唐突に言い出して、和子は目線をまたも庭の前栽へと向けた。
「好きだよ?和子ねえちゃんは?」
「夏は・・・嫌い。あんまり好きじゃない。」
庭を眺めている彼女の瞳は、だが庭の景色などを映しているのではなかった。
悠理はその姿に、昨夏、清四郎から聞いたことを思い出した。
「さすがにあの人もショックだったみたいですよ。」
「そりゃあ目の前で、だろ?」
魅録が青ざめていた。
いや、清四郎を含めそこにいる全員がだ。
全員で花火大会を見に行くことにしていた。女性陣は白鹿邸で、男性陣は菊正宗邸で浴衣に着替えてから、白鹿邸で合流したのだった。
和子の顔色が悪い、とたまたまその顔を見た美童が清四郎に尋ねたのだ。
その日。
卒業試験の勉強のために大学病院そばの図書館で友人と待ち合わせていた和子は、病棟の建物を横に見ながら歩いていた。
ふいに何かが目の端をよぎったので見上げた。
屋上の柵の外に人がいるのだ、と彼女は気づいた。
「ちょっと、なにやってんのよ・・・。」
暑いせいだけではない汗が胸元を伝った。
「ど、どなたか、警備員さんを呼んでください。」
と、和子は屋上の人物から目を離さずに通行人に静かに言う。
異変に気づいた人々が同じように屋上を見上げ、次々に悲鳴を上げた。
「騒がないで!彼を刺激します!」
和子は腕で周囲の人々を制止した。
11階建ての屋上にいるので顔までは確認できなかった。
年に数人こういう患者が出ることから屋上へのドアは電子錠にされ、今では職員や学生などの限られた者しか出入りできないはずなのに、彼はどうやってあそこへ出たのだろう?
警備員が走ってくる。彼が落下してくる恐れのある場所から人をどかす。
おそらく消防にも通報しているはずだ。
しかし間に合ったとしても屋上からではマットも役には立たないだろうが。
今頃は屋上に精神科の医師を含めたチームが到着しているはずだ。
だが。すべては遅かった。
ゆらり、と彼は風にあおられたようにゆれると、飛んだ。
一瞬、目が合ったような気がした。
見覚えのある、顔。
何度も間近に見た、あの顔。
道理で電子錠を開錠できたはずだ。
彼は患者でもその家族でもなく、この大学の医学生なのだから。
壁のカレンダーの写真は水遊びをする幼い白人の子供のもの。また夏が、来た。
「1年、たったんだなあって。」
即死だった。
当たり前だ。11階から飛んだのだから。
「入学したときは同じ学年だった人だったんだっけ?」
「清四郎に聞いたのね。」
「ごめん、あんまり和子ねえちゃんが沈んでたから、去年。」
入学したときは同じ学年、同じクラス。病理学実習では隣の席で実習室の顕微鏡を覗いた。
だが、彼は5年生にあがるときに留年した。
「ひと夏だけね、付き合ってたことがあったの。」
結局たがいに忙しかったから別れてしまったけれど。
「さすがにこれは清四郎も、他の家族も知らなかったでしょうけどね。」
儚げな笑みを悠理に向ける。
彼が何に絶望したかは知らない。
ただ、彼が沈んでいるらしいという噂は聞いていた。
でもそれだけ。
別れた男と顔を積極的に合わせようとは思えなかった。
会ったところで彼を追い詰めるだけなのはわかっていたから。
女というものの現実を教えた女。
大病院の院長を親に持ち、輝かしい未来を約束されるにふさわしい才能の持ち主。
そんな人間がどの面下げて彼に会いに行けよう。
・・・あの時、通りかかったのが自分じゃなければ彼は踏みとどまったのだろうか?
今更考えても詮無いこととわかっている。
だけど考えずにいられなかった。
それは己の人生への枷。
「ね。夏休みはとれそうなの?」
和子はその悠理の急な問いに、意識を現実に引き戻された。
相変わらず響き続ける蝉の声までもが耳に入っていなかったことに、気づく。
肩を撫でる涼やかな人工の風。冷房もまた動き出していたらしい。
「ええ。8月末に3日くらいとれそうかなって。」
「予定なければ一緒に南の島に行かない?」
目をきらきらさせて悠理が言う。まるでものすごく楽しいことを見つけた子供か子犬のように。
だけれどそこに映るものはただそれだけではない。以前の彼女には見ることができなかった、穏やかな光。
「でも清四郎とも一緒に行くんでしょう?」
「ん。だけどあいつ8月の終わりには試験勉強に戻るって。あいつには必要ないだろうけど、クラスの奴らに対策プリント作ってやるって。」
だから、さ。と悠理は続けた。
恋をして彼女は変わった。
天真爛漫な明るさは変わらないけれど、そこに無意識で人を傷つけないだけの思慮深さを兼ね備えた。
そして、ほんの少し切なげな色も。
「あ、それとももう誰かと約束がある?」
上目遣いに首をかしげる彼女の姿に、和子はくすくすと笑い出した。
弟がこの子を不安にさせている。こんな表情をさせている。
きっと会えない時間が、初めての恋が、この子を不安にさせている。
わが弟ながら罪な奴、ね。
「いいえ。仕事仕事で彼氏を見つける暇もなくてね。一人旅でもしようかと思ってたの。」
ぱっと悠理の顔が輝く。
そう。和子がこの子に望むのはこの顔だ。
「じゃあ父ちゃんの島に行こう!1日はのんびりできるよ!」
「ありがとう。悠理ちゃん。」
すっと和子が小指を出す。悠理がそれに自分の小指を絡めた。
「じゃあ約束。清四郎にも文句は言わせないわよ。」
「あはは、頼もしーや。ねえちゃん。」
和子はほっこりとした気分になるのを自覚した。
悠理の優しさが嬉しかった。
夏は悠理の季節だ。
夏は嫌い。都会の夏は嫌い。
だけど、そうじゃない夏は好きになれるだろう。
枷は消えないけれど、この仕事をしていく上で必要なものだ。
いつか、昇華できるだろう。
(2005.7.24)(2005.8.6加筆修正)
(2005.8.7公開)
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