2015/02/17 (Tue) 23:41
露を含んだ草を踏みしめる。
恐らく昼間ここへ来ればまだ生々しくどす黒いしみが地面に残っているのだろう。
だが、いくら月夜の今宵とは言え、もうそれがどこだったのかすらわからない。
ここへ来るのもあの夜以来、か。もっともここを去ったときには意識はなかったのだが。
「心配かけてすいませんね、魅録。」
ふと後ろにいる親友のほうへと振り向く。あの時、瀕死を脱したとはいえまだ危険な状態だった彼を都へと連れ戻してくれた親友。
恐らくは彼の辞任を受けて王都警備隊長の任を引き継ぐことになる親友。
突然の辞任劇の煽りで多忙な日々を過ごす魅録は、だが今夜は非番であった。
そして清四郎のあの野原へ行きたいとの願いを受けて、今ここにいるのである。
「正直、ここへ来るのを許してくれるとは思いませんでしたよ。」
清四郎は柔らかく笑んだ。
「一人で内緒で脱走されるよりましだ。まだ本調子じゃないんだぞ。」
「わかってますよ。」
もちろん、瀕死の状態を彼女が救ってくれた。ほのかに意識の深いところで温かいものに包まれていたことは覚えている。
それでも屈強な彼が寝込むには十分なダメージだった。
誰よりも精神力が強く頑健な彼なればこそ、脅威の回復力で今夜ここまで歩いてくることができているのだ。他の人間ならばまだベッドの住人だったはずだ。
そんな状態でも彼が本気で逃げようと思えば、恐らく魅録にだとて止めることはかなわぬのだろうが。
「悠理たちは、行ってしまったのでしょうかね?」
その名を口に乗せるのも何日ぶりだろう?
「さあな。」
魅録の声はいささか冷たい。それはそうだろう。二人が危ない目に遭わされてからまだ一月弱しか経っていない。
「ついて、行きたいと思ってました。」
呟くようになされた告白に魅録は沈黙で答える。
それはわかりきっていたことだから。
親友なればこそ、その決意がわかっていたから。
魅録の沈黙をよそに清四郎は独白を続ける。
「おかしなものですね。僕はね、彼女の孤独を埋めたいと、そう願っていたのですよ。」
彼女には恋人もいる。優しい従兄もいる。
その生れ落ちた運命ゆえに、生きてきた時間の長さゆえに、恐らくはすべてを達観しているに違いないのに。
なのに彼女は孤独に見えた。
昼の太陽が空にぽつりと浮かんでいるように。
「彼女が許してくれるなら吸血鬼になっても、人の命を吸ってでも、闇に閉じ込められても、かまわないと思っていたんです。」
野梨子は人間であることを捨てて吸血鬼になった。それでは清四郎がそうする方策も何かあるはずである。
「そしてそれが許されぬというのなら、僕の命をすべて彼女に捧げたかった。」
今が盛りの若い体。隅々まで生気に満ちた体躯。
逞しい胸板。機敏で力強い手足に冴えた頭脳。
張りのある皮膚の下には濃くて熱い血脈が流れている。
闇夜を映したような黒い瞳には、だが鷹のごとく鋭く梟のごとく理知的な強い光。
自分に酔うほど愚かでもないけれど、男として自信があることは確かだ。
そんなすべてを彼女の血肉に。
己の血の最後の一滴まで彼女のために。
彼の命は彼女の血となり肉となり骨となり、さらさらとした金茶色の髪にまで。
そして彼女のあの眩しいほどの眼差しの光へ。
彼女のすべてを彼の命で満たし、混ざり合うのだ。
魂は常に彼女の傍らに。風となり水となり、彼女を優しく包み込む。
「馬鹿。悠理がそんなこと望むものか。」
魅録が眉をひそめるので、清四郎は苦笑した。
そうだろう。こんな感覚は彼にはわからぬだろう。愛する女の血肉になりたいなどと。
それは物狂おしいほどの、恋情。
「恋に狂った男の戯言ですよ。」
「確かに狂ってるな。俺には理解できん。」
そうしてふうっと魅録は溜息をつく。いや、あの婚約者どののためならば何のためらいもなく戦いに赴けるだろう自分には気づいている。
いつか彼女を残して土に帰るのであれば、やはり魂は彼女の傍らにと望むのだろう。
そしてまたすっと息を吸い込んだ。
「清四郎。お前、警備隊を辞めるのは、旅に出るため、だな?」
さわさわと風が流れる。木々の枝がざ、と音を立てる。
「ええ。悠理たちを追います。」
たとえ嫌がられようと、彼女がそれを望まなくても。
彼女に会いたい。ただそれだけだから。
「すべてを捨てて?」
仕事も、家族も、友人も?
「あなたには本当にすまないと思ってます。」
清四郎は眉根を寄せて魅録へと苦笑してみせた。
「まったくだ。」
魅録は肩だけすくめて見せる。本当は言ってやりたいことは山ほどあるのだ。
仕事が忙しくなったこと。おかげでまた婚約者殿の首根っこを捕まえておく暇がなくなったこと。
だけど、今はそれを言っている時ではない。
魅録は一息ふうっと吐き出すと、また腹へと夜気を吸い込んだ。
「清四郎はこう決意してるとさ。これでいいのか?野梨子!美童!」
出てきた名前に清四郎は驚愕して森のほうへと振り返った。
そこには、二人の肌白い人物。
特に背の高い男のほうは金色の髪が満月の光を浴びてきらきらと光の粒を振りまいている。
そして清四郎と同じ黒髪の小柄な少女が花が綻ぶように微笑んだ。
「こんばんは。」
そう言って優雅に若草色のスカートをつまむ。
そのおじぎはこの寂しい野原をまるで王宮の広間であるかのように見せた。
まだ呆気に取られている清四郎に、彼女は苦笑を向けた。
「先日は申し訳ありませんでしたわ。言い訳はしませんけれど。」
「いえ・・・。」
清四郎はそれだけしか言えなかった。
なぜ彼らがここに?
なぜ彼に微笑みかける?
「お詫びにね、花嫁をお連れしましたの。」
顔の前で手のひらを合わせながらそういう彼女は、10代の無邪気な少女そのもの。
彼女は姿だけでなく中身まで時を止めてしまっているのか?
「はな・・・よめ・・・?」
彼女の言っている意味がまるでわからない。
花嫁、はなよめ。その言葉の意味すら覚束ない。
「おいこら、野梨子に見蕩れててどうすんのさ。彼女は僕の花嫁。お前の花嫁が臍曲げるぞ。」
金髪の男がからかうように言うので、清四郎は弾かれたように視線を小柄な野梨子からその背後のほうへと上げた。
闇に浮かぶ、緋色の花。
緋色のドレスなのだ、とわかった。
白い肌によく映える緋色。冷めているようで、けれど熱い思いを抱いている彼女の内を表したかのような緋色。
金茶色の髪は撫で付けられ、薄布のシンプルなヴェールをふわりと乗せるようにかぶっている。
胸元に金鎖で吊るされたエメラルドは森の緑を写し取ったかのようだ。
彼女のほの白い手には、白い蕾が一輪。
清四郎は声を出すことができなかった。
ただ、口だけが動いた。
「悠理。」と。
気がつけば足が彼女のほうへと動き出していた。
もう、ここがどこで、周りに誰がいるか、すべて忘れた。
白い手がすっと伸べられ、差し出された蕾を清四郎は受け取った。
「薔薇、ですか。」
やっと声が出た。
「他に言うことはないのかよ。」
ちょっとすねたように唇を尖らせる彼女の頬はうっすら染まっている。
言われて清四郎は口を開くが、なかなか続く言葉が出てこない。
何としたことだろう。この菊正宗清四郎ともあろう者が、ただ言葉を捜して口をぱくぱくさせているなど。
言いたい言葉が脈絡もなく溢れてくるのだが、あまりに脈絡がなく整理がつかぬのだ。
「・・・綺麗ですよ。本当に。」
一言だけ、彼女の瞳を見つめながらやっと音に出すことが出来た。
悠理はおとなしく清四郎の闇夜のような瞳を見上げていたが、その言葉に俯いて「ありがと。」と消え入りそうな声で言った。
「こんな格好、あたいらしくないんだけどさ、だけど、今夜は花嫁になるんだからってあいつらが強引に・・・。」
「これは、夢ですか?」
ぼんやりとしてなおも言い募る清四郎に悠理はすっとまた顔を上げる。
むに。
「まあっ。」「ぶっ。」「ぶはっ。」
あまりの清四郎のマヌケ面に、野梨子は口に手を当てて笑みを隠し、美童は遠慮なく吹き出し、魅録は一瞬こらえてから肩を震わせて笑い出した。
「痛くない?」
「いひゃいれふ。」
言って清四郎は己の頬をつまむ悠理の手を片手で軽くはらった。
そして周囲の笑い声に他の人々の存在も思い出した。
彼の頬が少し赤くなっているのは今つままれたせいだけではないだろう。
「その、花嫁というのは、その、まさか・・・。」
「お前の花嫁だよ。当たり前だろ?」
ざ。と風が吹く。
それまで少しずつ耳に戻ってきていた虫の音が再び遠のく。
「お前が、歳をとって逝くのを見たくないんだ。ずっとそばにいて欲しいんだ。」
心が、震える。
清四郎の心のままに震える手が、悠理の頬へと伸ばされる。
「いいん、ですか?」
「お前こそ、覚悟はいいな?」
一緒に、闇を生きてくれ───
これは言わなくてはならない。悠理は清四郎の瞳から目を逸らさぬままに言葉を繋ぐ。
「先に言っておく。あたいたちの間に子供は生まれない。それが人間を仲間にすることが禁じられた理由の一つだ。」
「かまいません。貴女と、生きることができるのなら。」
男の迷いの一切ない即答に、悠理の顔が歪む。
今度こそ愛したものを飢えさせはしない。そして野梨子のことは美童が守ってくれる。
清四郎はたまらず悠理を抱きしめた。
悠理は清四郎の肩越しに、桜色の髪をした清四郎の親友へと目を向けた。
「魅録。お前の親友をあたいたちに、くれ。」
瞬間、魅録は唇を噛み締め、くるりと彼らに背を向けた。
「はんっ。こんな薄情モン、てめえらにくれてやるさ。」
ざ、と音をさせて魅録は足を踏み出した。
もう、振り返らない。
ありがとう。そう言ったのは、誰?
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