2015/03/09 (Mon) 23:49
「クリスマス?」
と遊びに来ていた少女が首を傾げるので舶来の絵本を開いてやった。
「もともとは西洋で信じられているキリスト教という宗教を開いたキリストの聖誕祭なのですって。」
頃は明治。富国強兵、文明開化、和魂洋才の名の下に、西洋の文物を日本は取り入れるようになっていた。
徳川幕府では幕末の開国までご法度とされていたキリスト教の考えも急速に流入するようになっていた。
不思議な力をもって妖怪(おばけ)の類を祓ったりする少女・操にキリスト教のことを教えても理解はできないかもしれない。
だから、子供向けに描かれた絵本でかいつまんで説明する。
「この日の前夜は聖なる夜なので一年間よい子にしていた子供のところにプレゼントが贈られるの。」
もちろん千鶴とてもう十八歳になっていたし、もともと武家だったこの家に西欧の宗教がらみの風習など入り込む余地はない。
「この絵のように樅の木を飾って聖夜にはその下でパーティーを開くそうよ。」
もともとはドイツで行われていたクリスマスツリーの風習。タンネンバウム(樅の木)と彼の地では呼ぶ。
英国にこの風習が伝わったのは、ヴィクトリア女王の夫君がドイツ生まれだったことによるらしい。
大英帝国の栄を取り入れるように、飾りつけは豪華になっていった。
「そして当日の12月25日には家族みんなでおごそかに教会にお祈りをしに行くの。」
富める者も貧しき者も、皆が平等になる日。
ただの一人の人間に戻って、おごそかに祈りを捧げる。
「それは私たちが初詣に行くのと同じなのですか?千鶴ねえさま。」
操が首をかしげながら訊ねたので、千鶴はうっすら微笑んだ。
「ええ。きっと、ね。一年の無事を感謝して、次の一年の無事を祈る。自分や家族や友人なんかのね。それはどこの国に行っても変わらないのでしょうね。」
祈る相手が違えど、祈る日がほんの少しばかり違えど。
祈ることは同じ。願うことは同じ。
現世の幸福。来世の幸福。(キリスト教では最後の審判の日に天国行きか地獄行きかが決裁される。)
「ね、ねえさま、この絵は・・・」
と急に操が絵本のページを見て顔を赤らめた。
それは恋人同士が口付けを交わしている絵だった。
「ああ、あちらではキスと言ってね、親愛の情を表すための挨拶みたいなものなのよ。」
千鶴はくすりと笑った。少し前までこの国では、口吸いは情交の前置き、相手の精気を吸う鬼畜行為だったのだ。
そして、そのページに書かれた言葉をなぞった。
「Kiss under the mistletoe・・・」
「どういう意味ですの?」
と訊ねる操に、
「操ちゃんが大人になって恋人が出来たら、ね。」
と答える。
ええー、と操が抗議の声を上げるのに構わず、千鶴は絵本のページを刳った。
千鶴はストールを羽織って夜の庭に佇んでいた。
あの少女が遊びに来ていたことで家に溢れていた光の残滓も今では消えてしまっている。
家族はもう寝静まっていることだろう。
「風邪をひくぞ。」
不意に背後から声をかけられたので、千鶴は振り返った。気配に鋭敏な自分に気づかせずにこんな近くまで寄れるものは想像がつく。
「紫紅。」
そこにいたのは彼女に付きまとう、美しい妖怪。
白い肌。赤い唇。
不思議な色の瞳は相手の心を映し出すかのように深遠な光を湛えている。
空気に溶ける髪がさらさらとなびいている。
だが空気をほとんど震わせることなく千鶴の耳を撫でる声は低くて、この者が男性であることを強く印象付ける。
「若葉は?」
「あちらのほうで人死にがあったでな、喰いに行っておるよ。」
こともなげに言う。いつものことなのでもはや千鶴も驚かぬ。
「で?おぬしはこんな夜に何をぼーっと見上げておるのじゃ。」
別に言葉にしなくても、人の心が読めるあなたなんだからわかってるでしょうに、と思いながら千鶴は庭木を指す。
「あそこにヤドリギがあるの。」
「別にそんなもの珍しくもなかろうに。」
紫紅は顔をゆがめるようにして口端を上げる。少しばかり楽しげだ。
「昼間ね、操ちゃんに絵本を読んであげたの。それに出てきたから。」
千鶴は言い訳するように言う。この妖怪相手に取り繕うことなどないとわかっているのだが。
「Kiss under the mietletoe、ヤドリギの下の口付け、か。」
と低い声で囁かれて、千鶴はびくりを肩を震わせた。頬が赤らんでくる。
「だから、クリスマスじゃなくちゃ意味がないものなの。まだ先の話でしょう?」
慌てて千鶴はまくし立てた。
「それではまたその晩にここで会おう。」
紫紅が千鶴の肩に手を置きながら言う。
「な、何を言ってるの!誰があんたなんかと!」
振り返れない。耳まで真っ赤になってるのがわかるから。
彼の温度がない手が置かれている肩が熱いから。
背中に感じる彼の気配が熱いから。
「ヤドリギの下で口付けを交わした二人は幸せになれる、か。しかも女は拒めぬらしい。英国にはよい風習があるの。」
紫紅がおかしそうに言う。
千鶴は反論する。
「おかしいわよ。西欧の風習に習う妖怪なんて。」
理屈になってない、とわかってはいる。
でも反論せずにいられないのだ。
「では西欧の風習など知らぬわ。」
え?と千鶴が思ったときには、肩に置かれた手で体を反転させられていた。
向かい合うと、間近に紫紅の美しいかんばせがあった。
「クリスマスとやらを待つ必要はない、という意味であろ?」
花が綻ぶように微笑むから、千鶴はくらりとめまいを覚えた。
「自分の都合のいいように解釈するんじゃないわよ。」
だが、千鶴の反抗もそこまでだった。
そっと己のそれと触れ合った紫紅の唇は、体温がないはずなのに温かかった。
むしろ、熱かった。
きっとクリスマスの夜にもこんな風にここに来てしまうのだろう、と千鶴は頭の片隅で思っていた。
来世などない妖怪たち。
強い術者の手で祓われてしまえば塵となって消えてしまう者たち。
彼らはそうなればどこへ行ってしまうのだろう?
彼らには魂の行く先などあるのだろうか?
だから、千鶴は祈るのだろう。
この者たちが消えぬように、祈るだろう。
一粒零れた涙を、紫紅が唇で掬った。
(2004.11.7)
(2004.11.19公開)
(2004.11.19公開)
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