2015/03/09 (Mon) 23:33
いつのころからか気づいていた。
そしてこの美しい妖怪も私のこんな気持ちなどとうにお見通しだったに違いないのに。
はじめから嫌いではなかった。この美しすぎるほどに美しい紫紅という妖怪。
氷のように透き通った肌。空気に溶ける長いサラサラとした髪。時に子供のようないたずらっぽい光を宿す、けれどすべてを見透かしているような不思議な瞳。
その姿に心を奪われた人の生気を奪って、時には魂を食らっている妖しく怖ろしい妖怪。
目の前で祖母を殺され闇に染まった幼い私の願いを聞いてくれた。
きっとあのときから・・・・
庭先で月下美人が香る。
一年に夏の一晩しか咲かないはずの白い花が、ここでは主が望むときに望むままに香を放ち、月夜に彩を添えているらしかった。
「こうなっても我らの仲間にはならぬと?」
紫紅は隣で寝そべっていつものような意地悪な視線で私を見つめる。
だが、その視線には存外真剣な光も含まれていた。
「なるべく生気を吸わぬようにはするが、やはり短命になるぞ、千鶴」
薄物を羽織っただけで肌蹴た胸が壮絶なまでに色っぽい。男。
私は多少の気恥ずかしさと先刻の行為の名残で少しばかり紅潮しているに違いなかったが、それでも静かに、つとめて静かに彼に言葉を投げた。
「私は人間であることを捨てるつもりはないし、この関係を長く続けるつもりもないわ。今夜だけ。それだけのことよ。」
それが私の出した結論。
私に「子供を生んでくれ」と言った紫紅。
紫紅のことは嫌いじゃない。むしろ好き。人と妖怪という垣根を越え、初恋の人・修司さんよりも恐らくは私に近しいところにいるモノ。
彼に一生そばにいてもいいと言った。私が死ぬまでずっと一緒だと言った。
それでも私は人間であることを捨てるつもりはない。限りのある命だからこそ人間は愛しいのだもの。
種の垣根を越えた友人として、私の魂の拠所として、恋人という関係にならずに一生そばにいてくれるものだと、最後は私に甘い彼のことだからそうしてくれるのだと思っていた。それがどれだけ卑怯なことかわかっていてもそう願っていた。
でも、と思う。
紫紅と若葉という妖怪たちは永遠の命といっているし、その通り長く生きてきたらしいけれど、もちろん彼らだってある日消えてしまうかもしれないというのは私たちと同じ。いや、老いて病んで死んでいく私たち人間と違って、力を持った霊能力者の手である日突然、消し去られてしまうのかもしれない。その恐怖は私の中に常にあった。
だから、彼に抱かれた。
この不思議な空間で。私が普段住んでいる世界とは時の流れの違うこの妖怪の空間にあるこの質素な部屋で。
庭からはむせ返るような月下美人の香。
子供ができるだろうか?
半妖の子を産むことになるだろうか?
それよりなにより、たとえ妖怪とはいえ、結婚前に男と通じてしまった。
いつか人間の男と結婚することになったときに、私は負い目を感じるのだろうか?
「人間の男などには渡さんよ。こうなったからにはな。」
私の心を読んで紫紅が言った。
「そうね。結婚は一生しないかも知れない。でも・・・」
たとえ妖怪の子供を生むことになっても、子供に生気を奪われて死んでしまう結果になったとしても、私は人間でいることをやめない。
私の心が読めるあなただもの。わかるでしょう?紫紅。
不思議に穏やかだった。先のことを考えてもしょうがない、と開き直るような気持ちになった。
なによりこの行為に対して後悔の念が全く思い浮かばなかったから。
紫紅に抱かれたいという想いと、人間でいたいという想いと、矛盾するそれらの感情が対立することもなく私の中にすんなりと同居していたから。
「私をおいて逝くことなど許さんと言った筈だが?」
そう私の耳元で囁く紫紅の瞳にはほんの少しの悲しみが浮かぶ。
悲しみ。愛(かな)しみ。
過去にも紫紅が気に入った人間の女に先に逝かれて後悔にも似た感情を抱いたということは彼自身から聞かされたし、自分たちに姿を与えてくれた絵師を彼ら自身で屠ってしまったことも知っている。(そしてその絵師は修司さんの前世の姿だ。)
真実彼が私を愛しいと思い、置いていかれたくないと思っていることも知っていた。
だけど、彼は私が人間でいたいと思うことを遮ることができないというのも知っているのだ。
いつも人間でいたいと思い、人間らしく生き、命のはかなさを謳歌する。
私のそんなところを彼が愛してくれたのだということを私は知っているのだ。
だから私は卑怯者になる。
人間のままで彼を愛し。
恐らくは彼の望みのままに子供を生み。
彼をおいて人間として逝く。
私のわがままをきっと彼は受け入れてくれる。
本当は受け入れたがっている。
「ほんにおぬしは情無しよのお。」
と紫紅は言葉で応えず微笑みだけを返した私に呆れたように言って天井を見上げた。
「それでも惚れておるのはおぬしのほうじゃろう?紫紅。」
不意に部屋の隅から声がして、驚いてもう一度襟元を整え座りなおす私とは対照的に、もう一人の当事者である紫紅は平然と言い返した。
「恋人の語らいに割って入るとは無粋じゃぞ、若葉。」
そう。そこにいたのはもう一人の美しい妖怪。若葉。
今は妙齢の女性の姿をしているが、私が初めて出会ったとき、少女のように愛らしい少年の姿をしていた。紫紅とともに長い時を生きてきた、人間の肉塊を喰らう妖怪。
花が綻ぶような笑みを浮かべてコロコロと笑いながら若葉は言った。
「まあ、おぬしの好きな人間の言葉を借りて言うなら“惚れたほうの負け”じゃ。紫紅。」
紫紅はふうっと溜息にも似た苦笑を浮かべて若葉に微笑み返した。
そんな光景に軽い嫉妬を感じずにいられなくて、でもそこで私はやっと我に返った。
「わ、若葉!ずっとそこにいたの?!」
この部屋に連れてこられたときにはいなかったはず・・・
「いや、いくらなんでも閨事を見ていたところで腹は膨れんので適当に“食事”をしてきたところじゃよ。」
ね、閨事って・・・たしかにそれはその通りなんだけど・・・
「じゃ、じゃあ、いつからそこに・・・」
「おぬしが目を覚ましたあたりかのお?」
と意地悪に笑う若葉に、私はくらりと眩暈がした。
「もう帰るわ。」
と私はすばやく身支度を整えた。と言っても、ここへは寝巻きに薄手の上着を羽織っただけという姿で来たのだから大した手間ではなかったけれど。
「帰さぬ、と言うたであろう?」
と紫紅は壮絶なまでの笑みを浮かべて、相変わらず寝そべったままで言った。その瞳にも言葉にも有無を言わせぬ強さが篭っている。
「そうじゃのう。いい機会じゃ。ようやっと千鶴を我らが手に入れたのじゃから簡単には帰さぬよ。」
と若葉も悪戯っぽく微笑みながら言った。
だけどそれでひるむ私ではない。
「帰る、と言ってるの。」
人間の世界に。
両親や、弟や、優しい友人たちがいる私の世界に。
もしも身ごもっていたとしたら大騒ぎになるだろう。
またここへ戻ってくることになるかもしれない。
それでも帰る。
卑怯者の私は、帰る。
「何があっても死ぬまで一緒よ。そう言ったでしょう?」
すらすらと卑怯者の言葉を吐く。
「だから、私がどこにいようと、一緒なの。」
そういって私が迷いのない微笑をむけたら、彼は私に逆らえないのを私は知っている。
「やっと思いを遂げた今夜はそうは行かぬぞ、千鶴。」
と紫紅は言う。
「おぬしを人の世に呼び戻す未練を我がすべて断ち切ってもよいがの。」
と若葉が怖いことを言う。
でもわかってる。彼らはそんなことはしない。
そんなことをしたら私は自害するだろう。
それを知っているから彼らはしない。
「ふう、私もあなたたちには甘いようね。」
と私が溜息をつくと、若葉のほうが「どこが?」という冷たい視線をくれた。
そんな若葉の視線を受け流して私は紫紅に言った。
「もし今夜これで身ごもっていたらその子は産むわ。それでいいでしょう?」
「それでもおぬしはこの先、惚れた男ができたら迷わずその男と結婚するのであろうな。」
と紫紅が言った。
「よくわかってるじゃない。」
と私は応えた。
「ま、今宵のところはこれで引いてみるかの。おぬしの一生をかけてでも他の男など目に入らぬようにしてみせるゆえ。」
諦めたように紫紅が言うのを私も若葉もわかっていたのかもしれない。
「甘い!甘すぎるぞ!紫紅。」
若葉が怒鳴るのを受け流しながら紫紅がさっと手を振ると、庭に通じる障子が音もなく開いた。
「今宵は送っていかぬぞ。」
とせめてもの意地悪なのか、紫紅が言った。
そうして私は月下美人のむせ返る道を一人でくぐって人の世に戻ってきた。
気がつくと自分の部屋に、いた。
開いた窓を振り返ると、よく晴れた空に大きな満月が沈みかけていた。
後悔は、ない。
卑怯者となっても私は自分を貫きたかった。
だって紫紅は私がいつも私でいる、そんなところを愛してくれたのだもの。
変わってしまう私になど途端に興味を失ってしまうだろう。
お互いに厄介な恋だ。
この先、どう状況が変わっていくのかわからない。
でもそのときになってから考えればいいや、と今夜の私はそう思った。
「ほんに千鶴は呑気よの。」
と呆れる若葉の声が聞こえる気がした。
でもあなたたち二人とも、そんなところを愛しいといってくれたじゃないの。
(2004.5.2)
(2004.8.20公開)
(2004.8.20公開)
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